2010年3月31日

7ヶ月になりました

今日はくららの7ヶ月の月誕生日です。


明治のミルク「ほほえみ」を最初に買った時に、ユーザ登録すると色々情報を送ってくれる、ということで登録したところ、毎月の月誕生日に、「くららちゃん おめでとう ○ヶ月になりましたね」というメールが届くようになりました。

今日も「そろそろお座りができるようになるころですね」というメールが届いていました。

そうか、もうお座りが出来るんだね、くらら。

月命日や月誕生日で、色々と頂き物がありました。

友人からマカロンが届きました。Cちゃん Tちゃん 有難う!
くららには2つ、アトムもモリモリ食べました。


姉からはくららカラーの桜のマカロンが。







会社の帰りにお花屋さんに寄ったところ、珍しいギザギザのチューリップを発見。色もくららっぽいので買ってみました。



くららが旅立ってから2ヶ月になり、ずっと持っている自責の念に、このところ怒りのような思いも混じってきました。

自分のために何かをすることが許せないししたくない、本をゆっくり読めたりお風呂にゆっくり入れたりする自分が本当に嫌だと思ったりも。アトム君がいるとき以外は楽しいと思えることは何一つありません。

グリーフカウンセラーの方いわくは、最低3ヶ月ぐらいはおうちに籠もって、ゆっくりとお子さんを想ったり悲しみに向き合ったりする方が多いですよ、とおっしゃっていました。
また、くららのためだけに使う時間を十分に取ることも大事だともおっしゃっていました。


悲しみが癒える事はないと思いますが、それでもやっぱり、もう少し制限無く人目も気にせずにくららを想って過ごす時間が欲しいし、そのプロセスを経なければ、責任ある仕事をこなして行く自信・気力は沸いてこないような気もします。
でも、今ここで、仕事をどうする、辞める?大きな決断をする気力もちょっとない状態で、ずるずるしています。



グリーフカウンセリングのことはまた後日書きます。

2010年3月29日

くららママ

今日は真冬並みの寒さでした。

昼食がてら外に行くと、駅のショッピングビルには冬支度をした赤ちゃんがたくさんいました。

その中に、くららの冬用ケープと同じものを身につけて、ママに抱っこされている可愛い赤ちゃんを発見!



羨ましいのとはちょっと違うけれど、、やっぱりこんなとき、

「あぁ、私もくらら抱っこしたいなぁ」

って思っちゃいます。寒さも忘れるぐらい、くららを思って心がじわ~っとしました。




ちょっと粗い写真ですが、向かって右側のケープが、そのうわさのケープです。


それから、今日、Mちゃんのパパとママからお電話を頂きました。

Mちゃんのお誕生日のお祝いに、ピンクの風船の付いた御花を贈ったところ、とても喜んでくれて。

Mちゃんパパ・ママだって、まだまだつらいのに、明るく支えてくれる言葉を下さって、後ろではMちゃんのお姉ちゃんの明るい歌声(?)が聞こえて、昼間少ししょんぼりしてた気持ち、持ち直しました。


くららは、病棟とお家が人生のほとんどだったので、病棟で出来たお友達は本当に大切な存在です。

ちょっとしたことなのですが、これまでもこれからも「アトムママ」と呼ばれることは度々ありますが、
「くららママ」と呼ばれることって、本当に少なくて。

だから、今日もMちゃんパパ、Mちゃんママに「くららちゃんママ」って呼ばれてとても嬉しかったです。


くららママって、呼ばれることが、くららが生きた証のようで嬉しかったです。

もちろん、アトムママはこれからも続きます。

2010年3月28日

事実を理解したとき

1月28日 15時55分にくららが旅立った後も、病院で沐浴したり、抱っこして歌を歌ったり、今までと変わらずに接しました。

夕方18時ごろ、寒く暗くなってきて、病院からいよいよお家に戻るとき、主治医の先生が

「お母さん、外は寒いからコートを着たほうがいいよ」

とおっしゃってくださいましたが、私は

「大丈夫です。くららを抱っこしてるから温かいので」
と答えました。本当に温かく感じたんです。

それから数日、お家でいつものくららの寝ている場所にくららを寝せて、着替えをさせて、朝になったら顔を拭いて唇にワセリンを塗って、いつもどおりの生活をしました。

2月1日、くららの見送りの日も、私の中ではくららは旅立っていませんでした。


でも、斎場について、無機質に番号が振られた台の前に立ったとき、モニターにくららの名前が表示され、名前の左側に「故」という文字を見たときに、今までの人生で感じたことの無い感情が沸き起こってきました。

怒りだったり、悲しみだったり。

怒りのほうが強かったかもしれません。「故」ってなに?やめて、、と思いました。

今でも思いますが、どうして「故」ってつけなくちゃいけないのか理解できません。
フルネームのままではいけないんでしょうか。

でも、あの瞬間に、「故」って文字を見たときに、私はくららが旅立ったことを「事実」として理解したような気がします。

主人に「パパ、「故」ってついてる。くららの名前に「故」って付いてるよ。「故」じゃないよね、どうしてなんだろうね。」
と話したことを覚えています。



月命日は、何か特別な感じがします。
今日は、くららのこと以外、一切何も出来ませんでした。
たくさんボーっとして、横になってうつらうつらしながら、何度もくららに会いました。


4月からクラスが変わるアトムの保育園用の準備も、全然出来ませんでした。
平日にやらなくっちゃ。

本当なら、くららとアトム、二人一緒に4月1日から通うことになって、それは忙しい週末になっていたはずなんですが。

桜 咲き始め

うす曇の今日28日、2回目の月命日ですが、近くでは桜がちらほら咲き始めています。

くらら、これが桜って言うんだよ。


桜の花びらの色、儚げなピンク色がとてもくららっぽいです。

桜を見ることは出来ませんでしたが、でも、何故だか桜を見ると、くららだなぁ、と思います。

2010年3月27日

2回目の月命日

明日はくららの2回目の月命日です。

まだ2ヶ月ですが、会えなくなった寂しさを思うと、くららが旅立った日がとても昔に思えたりします。


そして29日は、くららのお友達のMちゃんの1歳のお誕生日。
Mちゃん お誕生日おめでとう!

Mちゃんは、くららと同じ無脾で心臓病の専門病院でお友達になりました。

無脾の子が3人、偶然にもそれぞれ1日違いで手術を受けて、後日無脾の子が3人ICUで並んでたんですよ、と看護師さんに聞きました。


色白でお目目が大きくてとても美人なMちゃんは、去年11月25日に突然旅立ってしまいました。


Mちゃん、くららと一緒にたくさん走ったり遊んだりしてるかな?

もうすぐお姉ちゃんは入園式だよね、Mちゃん 当日はお空から参加だね。

くららのことこれからも宜しくね。



無脾のもう一人のお友達のHくん、H君はNICUを一番最後に出たけれど、元気に次の手術を目指しています。

月齢も同じで、同じ時期に頑張ったお友達なので、Hくんの回復や成長はとても楽しみです。

がんばれー!おばちゃんも応援してるからね!大丈夫、すぐお家に帰ってお兄ちゃんと遊べるからね。

2010年3月24日

億劫

なんだか、ちょっと気力が落ちてきているというか、会社に来たり外に出ること、人と会うことが億劫になっています。
張り切りすぎて、パワー切れ?

前向きに、大丈夫、くららは今でも一緒にいるから、元気なママを見せて安心してね、と
思う瞬間と、どうしようもない喪失感や自責の念、怒りで感情が溢れてしまう瞬間もあります。

こんな風に、感情もちょっと凍るというか無気力、無力な瞬間も。

2010年3月22日

いのちはなぜ大切か

終末期医療に携わる小澤竹俊先生の「いのちはなぜ大切なのか」を読みました。


「病気が進行するにつれ、今まで出来ていたことが一つ一つ出来なくなっていく。これは大変つらい苦しみ。
しかし、たとえ自分で出来なくても、自分の行いたい大切な事柄を、心から信頼出来る誰かにゆだねられること、手放すことが出来たなら、例え死が迫っていても、穏やかでいられると認識する可能性がみえてくる」

とあります。

くららもミルクがお口から飲めなくなり、段々と、鼻から入れたチューブのミルクも消化に苦しむようになりました。ベビーチェアに付属したおもちゃで遊ぶ元気もなくなり、その後ベビーチェアに座ることすら、肩で息をして、つらいようになってきました。

本当に少しずつ、出来たことが出来なくなっていくのをただ見守るだけ、何もしてあげられない無力さに、悲しむよりも腹が立ったりしました。


でも、抱っこして歌ったり、一緒に横になって私がおもちゃをお顔やお手手に近づけて音を鳴らすと、苦しそうに笑ってくれたりしていました。

くらら、最期まで穏やかな気持ちでいてくれた?

いつか答えをママに教えてください。


2010年3月20日

今日も海へ

この週末も、くららをより近くに感じたくて海へ。

空や海に向かって、家族3人でくららに話しかけると、やっぱりくららを凄く感じます。
空からこっちを見てくれてるような。

海の近くの公園、以前にも訪れたことがありました。

「あふれる愛を子らに」と書かれた親子の像。

30数年前に墜落した米軍戦闘機墜落の被害にあった子ども二人とお母さん、25年前に設置されたものだそうです。

新しい千羽鶴がかけてあり、今でもいろいろな方に想われている像だということがわかります。

この像を見て、子どもの頭に触れて、とめどなく涙が出てきました。

大変だったよね、お母さんもつらかったでしょうね。

ふとみるとパパも泣いていました。


少し歩いてベンチに座り、アトム君が水筒からお茶を飲みながら飛行機雲を発見しました。

あの飛行機雲はくららちゃんに続いてるよね、そんな話をしていたら、

アトムが「くららちゃん、歩いて公園来るかもよ」と、

その瞬間、パパは再び涙、「歩いてるくららちゃん、会いたいなぁ」とポツリ。

私は夢で歩いてるくららに会ったことがあります。

髪の毛は乳児の短いままで、でもピンクのドレスと白い靴下を履いて、テケテケテケと歩いてくるくららは本当に可愛かった。

もちろん、今だって会いたい。


言葉少なく公園を後にしたのですが、目の前のとおりに緑色の洋服を着た人や緑色の風船を持つ人がパレードの準備をしていました。

風船を配っているお兄さんに何のパレードか伺ったところ「セントパトリックデー」とのこと。

アトムにも風船を頂き、沿道でパレードを見ることにしました。

バグパイプの音色やアイリッシュダンスを踊る子ども達、キャッツのメークのバトントワラー、米軍の音楽隊等皆さん本当に楽しそうで(米軍の方々は真面目顔でしたが)気持ちが明るくなり、たくさんはしゃいで最後にはアトム君眠ってしまいました。


海でくららと語り、帰りの電車でもくららを思い、帰宅してもくららに「ただいま」
これってなんだかなんだか変なようですけど、でも、自然なこととして。

2010年3月19日

社会との関わり方

復職してから2回目の週末です。

まだ本格的な仕事が始まっていなくて、業務中も結構時間があるので、今日はPCのハードディスクに入っているくららの写真をスクリーンセイバーにしてみました。

Windows Xp/Vistaの標準機能なのに、なんて便利なんだろう。
(会社の人が見ていないから書けることです。。)


この10日間、本当に周囲が気遣ってくれていることを感じ、申し訳ない思いがするほどでした。

くららの疾患や在宅で過ごしたことなど、1人の先輩を除いてはどなたもご存じなく、出生の連絡があったと思ったら次は弔事連絡で、皆さんとても心配してくださっていた、と聞きました。

1人の先輩は、以前からとてもお世話になっており、励まして頂いたり、休職中の会社の状況を時々メールで教えてくださっていて、私のほうも簡単ですがくららの状況をお伝えしていました。



仕事がいつまで続けられるか、今は本当にわかりません。


でも少なくとも今、お給料貰って働いている限りはしっかりならなくちゃ。


復職前に、復帰するからには、公私の区別をつけてしっかりと成果を出せる気持ちが無ければ復帰はしてはいけない、それが出来るのか?

何度も自分に問いかけました。

個人的な事情を抱えているのは私だけではないのだから。

皆人生色々あるんだから。

正直なところ、ほんとに僅かな自信しかありませんでしたが、「やれるかな?」
「やれるかも。。。いや、どうだろう」という思いで、可能性がゼロではなかったから復帰をすることにしました。。



ほとんどの人は気を遣って下さって、話しかけてきません。
私がどういう状況なのかもわからず、戸惑われてるのかな、と思いました。

上司も、仕事らしい仕事の割り当てはまだ行わず、少しリハビリというか復職のペース作りをさせて下さっていますが、、周りがとても忙しそうなので本当に申し訳なく思っていました。


そして今、職場にいて、私が出来ることって何だろう、復職10日目にして考えました。

それで、くららのこと、生まれてから心臓の病気がわかったこと、突然余命宣告になってしまったこと、
それでも頑張って元気に過ごして、たくさん思い出を残してくれたこと、
仕事は仕事としてきちんと行う意志を持って
復帰したこと、を簡単ですが、一緒に仕事をする上司や仲間にメールで送りました。


伝えたかったことの本質をきちんと伝えることが出来たかどうか自信は無いですが、でも、大事なのは、状況を共有し、今ある率直な思いを伝えること、その結果、今後少しでも、周囲の皆さんが以前と変わらない気持ちで私と一緒に仕事をしていただける状況になれば、と思います。

くららのことは私個人のことで会社のことではない、今更ながら気持ちを引き締めて、
働いている限りはしっかり目の前の仕事をしていかなければ、

ママ、甘えてちゃ駄目でちゅ、と、くららに呆れられてしまうから。

くらら、ママ、会社に入ったら、ピーンと背筋を伸ばして頑張るから、
会社を出たら、思いのまま、くららを想って、くららに話しかけていいよね。

PS くらら、Oちゃんがお空に行きました。Oちゃんと仲良くね。

Oちゃんのお父様、お母様、ご家族の皆様、心よりOちゃんのご冥福をお祈りすると共に、娘にOちゃんのことを伝えました。

Oちゃん、くららとおともだちになってもらえたらうれしいです。

2010年3月18日

納骨

仏教で言うところの四十九日がやってきます。(くららはクリスチャンですが。。)

納骨ってしなくてはならないものなのでしょうか。

ずっと私が人生を終えるときまで一緒に過ごしたいと思っているのですが、それはいけないことなのかな。



いつもそばにいてくれている、って思っていますが、やっぱり逢いたくて抱きしめたくてたまらなくなることがあります。


今日保育園の帰り道、アトムが突然

「くららちゃん 病院から帰ってきてるかなぁ」

といいました。お空にいると思っているのも心から、病院にいるんだって思っているのも心から、
どちらもアトムの本心だと思います。

アトムが、成長と共に、わかることが増えていったり自分で考えることが出来る範囲が広がる節目節目で、くららの存在の捉えかたをアトムと共有していきたいと思います。


アトムが寝た後、ずっと観るのを避けていたくららのビデオを見ました。
やっぱり駄目ですね、どうしようもなくなっちゃいます。


いつか笑顔で映像を見る事が出来るようになるのだろうか。
無理して笑顔にならなくてもいいかな。

グリーフケア

昨日のブログで、グリーフケア、という言葉に「遺族ケア」という注釈をつけましたが、正しくは
「愛する人を亡くした悲嘆のケア」という意味でした。

大きな違いです。気がついてよかったです。

2010年3月17日

2月27日 小児臓器移植セミナーのこと

すごく長くなってしまいました。。。


「脳死の人」(森岡正博著)を読み終わってから、先日の小児移植セミナーの感想を併せて書こうと思っていたのですが、とても考えさせられる内容の本で、少し読んでは考えて、少し読んでは調べて、今日読み終わりました。

脳死について述べることは、色々な意見の方、立場の方がいますし、私はそれについて意見を述べられるほど多くの知識を有していません。

ただ、この本で最も印象に残っている箇所は、

「脳死の人」も「生活している人」と同様に「人」である。脳死の人を私たちの社会へ迎え入れる際に、家族・医師・看護師・移植関係者などが共有すべき最低限の礼儀作法を、私たちは時間をかけてでも作り上げ、次の世代に伝えてゆくべきではないか

という部分です。

臓器移植改正法施行を7月に控え、小児の移植医療が欧米と同レベルまで日本でも確立されていくことを願いますが、過去に行われてきた数々の「脳死の方」の尊厳を損なうようなことはあってはならない、そのために、知っておくべきこと、自分の出来ることを改めて考えてみようと思います。


そして、
2月27日土曜日に参加した小児臓器移植セミナー。
(http://urandemain.blogspot.com/2010/02/blog-post_27.html)

臓器移植改正法については、
「移植賛成か反対か、脳死の定義とは」がクローズアップされがちですが、何よりも「脳死を作らない体制」を整えることが重要、というお話が印象に強く残りました。

日本は新生児・未熟児の救命率は年々上がり、高度な医療が提供されていますが、一方で
成人に比べ小児ER(救急救命)が不整備で、例えば昨年のインフルエンザの流行についても、ERがあれば助かった命がたくさんある、特に2歳~6歳の救命率がかなり低い、とのことでした。

知らなかった。。


そしてまた、脳死とも関連しますが、ドナーのご家族についても十分に配慮できる体制が必要であり、特に日本はグリーフケア(遺族ケア)も未整備だそうです。


続いて実際の移植について。

ドナーの体から取り出した臓器にはそれぞれ保存時間の限界があるとのこと。この時間内にドナーの感染症検査、臓器の機能検査、病院の手術実施体制、レシピエントの体調確認等を終えて移植完了しないと、臓器は
変質し、機能不全になるそうです。

・心臓 4時間
・肺  6時間
・肝臓 24時間
・腎臓 48時間
(肝臓と腎臓のところは走り書きメモのため、間違っていたらどうしよう。。。)

だから、心臓や肺の移植の場合は、チャーター機が必要になるケースがあるのか、と納得しました。

心臓、肺、肝臓、腎臓、それぞれの移植のエキスパートの先生が現状や今後の具体的な課題などを話され、素人の私でもとてもわかりやすい内容でした。

特に心臓移植については配布された資料もとても丁寧でわかりやすく、移植対象となる先天性疾患名の中には無脾症の記載もありました。
海外では1歳未満で移植する子の63%が先天性疾患なのだそうです。


無知だったなぁと反省したのは、肝臓・腎臓については、既に生体移植で大人から子どもへの移植が日本でもされているんですね。知らなかったです。

心臓や肺のように、胸腔のサイズが同等でないと移植できない臓器もあれば、子どもから子どもへの移植よりも大人から子どもへの移植の方が、術後の状態が良い腎臓のような臓器もあること、大変勉強になりました。


またレシピエントコーディネータさんによる、移植を受けた後のレシピエントのケアも、学校生活や思春期、就職のタイミングなど長期に渡り行われるものであり、また必要なものですが、コーディネータさんの数が足りないという現状も初めて知るものでした。

そしてまた、被虐待児からの臓器提供を防止案。
15歳未満は親が同意すればドナーになれますが、虐待されていたかどうか、しっかりと見極めるための対策案を伺いしました。
もちろん虐待自体があってはならないことが前提の上で。


丸一日、私はくららと一緒にセミナーに参加していました。休憩の合間に、アッシュペンダントに触れてくららの写真を見ながら、内容について心の中でくららと話していました。

快く送り出してくれて、帰宅後はご飯も作ってくれていたパパとアトム君にも感謝の一日でした。

時期尚早

今日は帰りの電車で急に涙が止まらなくなってしまいました。


乗り換え直前に目を上げると、正面に座っていた今風の若い男の子が凝視していて、変な人と思われたかもしれません。。

なぜかと言うと、電車に乗る直前に駅地下のお店で、木村カエラのbutterflyが流れていたことがきっかけでした。

この歌は結婚式の花嫁さんに宛てた歌だったと思います。

年末のテレビ番組で流れたこの歌を、くららを抱っこしながら
「くらら、どんなお嫁さんになるんだろうね」、って話したこと、

最初の手術の後の退院時、保育園にも学校にも普通に行けるようになりますよ、って言われたこと、

くららちゃんが出産するとなったときには、少し注意が必要になりますけどね、って言われたことが一気に押し寄せてきて、涙が止まらなくなりました。


仕事中、気がつくと思考が停止していたり、物思いにふけっていたり、仕事になっていないし、
やっぱり復帰は早すぎたのか、復帰すること自体無理だったんじゃないか、と思いながら帰宅しました。


こんな弱音ばかり吐いていたら、眉間にしわを寄せて困り顔のくららにみつめられそうです。



でも仕事を始めてよかったんだ、と思えることが1つ、それは夜眠れるようになったことです。

2010年3月15日

バタン キュー

先週1週間は、週末家に着いたとたん、バタン キューとなってしまいました。

まだ仕事らしい仕事は割り当てられていないこともあり、専ら未読の社内メール(約8000通ありました!)
を読み漁っていただけ、後は通勤しただけなのですが、思いのほか疲労が濃くて。

余談ですが、私の会社は基本的なコミュニケーションがメールなので、極端な話、相槌程度でもまた近くに座っていてもメールでやりとりしたりします。

席が固定席ではないことや、とてもミーティングが多いこともあり、電話や直接話すよりもメールのほうが相手をつかまえることができるためです。

(ミーティングには皆ノートPCを持って内職しながら会議に参加するので、会議効率はあまり高くないときもありますが。。)


帰宅後、パパとアトム君が入浴している合間に、だらしなくソファーに寝そべってテレビをつけると、松田聖子さんが歌っていました。

以前、入院中、くららが夜寝付けないとき、病棟を散歩しながら子守唄を歌ったことを書きましたが、知っている子守唄を歌いつくした後は、「瑠璃色の地球」等も歌いました。

「あなた」や「ふたり」の歌詞をくららに代えて歌ったこと、そのときの抱っこしていた感触を懐かしく思い出しました。

翌日も体がなかなか動かなかったのですが、お昼から気温があがり、思い立って、また海に行きました。

「海に何が見えるかな~」とアトムに聞いたら

「ママ、くららちゃんが見えるでしょ~」と。

私はまだくららの姿は見えなくてぬくもりだけしか見えないけれど、アトムにはくららの姿が見えてるのかもしれないなぁ、と思いました。


最近、やっと、くららぐらいの月齢の赤ちゃんを見ても、涙がでなくなりました。

以前ある天使ママさんが「他の子をみてもはあまりにもわが子と違いすぎて重ねたりは出来ないから」
というようなことをおっしゃっていましたが、今やっとその気持ち、私も感じます。

赤ちゃんはみんな可愛いし、抱っこしたいなぁと思うけれど、

くららじゃないから、涙はでてきません。

だから、アトムの保育園の送り迎えでも、0歳児クラスの赤ちゃんを見ても

「かわいい」

と思うだけ、涙はでません。


もちろん、まだ、泣かない日はありません。

会社の行き帰り、お昼休み、、

でもそれはくららだけを見て、くららを偲んで、の涙。

くららが旅立った1月28日から、時は止まっているように感じていたけれど、

氷が溶けるように、ゆっくりと時が流れているのかもしれないです。

2010年3月11日

小さな命の伝えるもの

今日(もう昨日?)3月11日の日経新聞夕刊 11面に、小児ガン、ターミナルケアを専門とされる小児科医の細谷先生の記事が載っていました。

細谷先生は
「何故うちの子がと嘆き悲しみ、それでも運命を受け入れなければならない。
家族も医療関係者も、その子のために出来るだけいい思い出を作ってあげたいと思う。
そんな気持ちが一つになると、その子がなくなった後も命は続いていく」
とおっしゃっています。

本当にそのとおりだと思います。

くららの主治医の先生方や看護師さんも、くららが家で過ごせるように、本当に色々と配慮・サポートして下さいました。

体調に変化があれば、24時間どんな時間帯でも電話で親切に対応してくださり、いつでもお電話下さい、判断に迷ったら電話下さいね、と必ず最後に言ってくださることがどんなに心の支えになったかわかりません。


先日病棟を訪れた際、主治医の先生はこうおっしゃいました。
「お母さん、今はまだそんなことすら考える気持ちにはならないと思うけど、
もし5人家族になりたいと思うことがあったら、そのときは私に胎児エコーやらせてね」

心臓病の専門病院ですから産科はもちろんありません。
何より私自身アトムやくららに妹・弟を、ということがあるのかどうか、気持ちも頭も追いついていません。

でも、

「5人家族」

という響きが嬉しかった、そう、当たり前のことだけど、でも、くららがちゃんと含まれているのが
嬉しかったです。私たち家族の中だけでなく、いろんな所でくららの命はちゃんと続いています。


細谷先生が小児ガンの看取りについて書かれた本を偶然少し前に読みました。

日本では、病院以外の場所から旅立つと、必ず一度病院に連れて行くか医師に出向いてもらい確認をしてもらう必要があります。

細谷先生は自宅から旅立った子ども達のお家に出向いて、宣告をされたりしたことを綴られていました。

旅立ったわが子が、息を吹き返すことはないことがわかっていても病院に連れて行かなければならないの
は、本当につらいものです。

細谷先生のようにお家に来て一緒に看取ってくださるのは、小児科医不足の現状では難しいと思いますが、、ターミナル期において、家族が運命を受け入れ、望めば、そういう選択肢も得られる時代にいつかなるといいなと思います。


姉から出張のおみやげに、と、くららにイースターバニーのチョコレートを貰いました。
ウサギ好きのくららにはたまりません。ね、くらら。

ジョンQ、美紗都ちゃんを救う会

ドイツへの渡航移植を目指す美紗都ちゃん、応援しています。
http://misato-chan.net/pc/aisatsu.html

お伺いしたいことがあって、救う会の事務局の方とお話しする機会がありました。

重篤な娘にずっと付き添いたい気持ちを抱きつつお仕事や募金活動をするお父さん、
お父さんと一緒に毎日救う会事務局に訪れる妹思いのお姉ちゃん、
渡航の日に希望を持って一生懸命頑張っている美紗都ちゃん、

そして何より、私の立場では、美紗都ちゃんが心配でたまらないであろうお空から見ているお母さんの思い、胸に迫りくるものがあります。
私に出来ることは限られていますが、1日も早く渡航しドナーとめぐり合えて移植できることを応援しています。

目の前に助かる命がある。

次に渡航移植を目指す子に役立てることが、くららちゃんが一番喜ぶ形だと思う。

パパの会社の方等からくらら宛に頂いたお心遣いについて、パパからそう話がありました。

これまで小児移植・医療の現状を知ろうとしたり、渡航移植を目指す子ども達を応援するスタンスでは、夫婦の間で少し考え方が異なっていました。
良い・悪いとか、賛成・反対ではなくて、夫婦とはいえ、それぞれ個人ですからそれぞれの考え方があります。

今回、渡航移植を目指す子ども達を応援したい気持ちや実際の行動が、夫婦の間でピタッと一致したことは、単純に嬉しいことでした。

パパとママにたくさん絆を深めて欲しい、くららがそう願ってお空から何かしてくれたのかもしれません。

そして、映画「ジョンQ」

デンゼル・ワシントン主演の映画です。
映画ですからフィクションであること、また2002年の作品ですから最新の状況とは異なる点があるであろう事は大前提ですが、他国での小児移植の現状を少しでも理解したくて手に取りました。

結論からいうと、心臓病になってしまった子ども、マイクがくららと重なって、心不全をおこしつつある病状をつらい思いでみてしまったり、病院から最初に病状説明を受けたデンゼル・ワシントンが

「もう少しわかる言葉で説明してください」

という姿が以前のパパと私に重なったり、ストーリーを追うよりも主観的に観てしまいました。


概要を簡単に。

最愛の一人息子がある日突然、倒れ、病院に連れて行くと、心臓が肥大し移植をしなければ、余命いくばくも無い、と宣告されます。
病院の経営者は、ジョンQの収入や医療保険の種類(HMO)から移植費用(¥約2500万)は払えないため、移植ではなく看取ることを薦めます。移植希望者リストに載せるだけでも保証金(¥約300万)が必要といわれ、車やテレビ、あらゆる家財道具を売り払い一生かけても払うから移植を、と請うジョンQですが、病院側は一方的に、治療のすべはない、と重篤な息子を退院させようとします。

移植を受ければ助かる命、息子の命を救うために自分が出来ること、、、
ジョンQは人質を取って病院にたてこもり、息子を移植者リストに載せるよう要求しますが・・・



アメリカに生まれていれば、一もニもなくくららは移植を受けられていた、そう思っていました。
でも、日本のように国民皆保険制度の無いアメリカでは、入っている保険の種類によって、移植のような高度医療を受けられない、移植希望登録すら出来ないこともあること、今まで知りませんでした。

日本は国民皆保険が整っていますが、例えば移植時に臓器を運ぶ交通費(チャーター機)や、移植後に長期間服用する高額な免疫抑制剤費用等も個人に負担が重くのしかからないようになっているのでしょうか、
ちょっと心配になってきました。

経済格差が子どもの学力格差も生む、そんな問題提起の記事を最近よく目にしますが、教育だけでなく医療も親の経済力に左右されること無く、すべての子どもが平等に与えられてしかるべきもの、と思います。

会社の業績や自身のキャリア、生活のためだけでなく、すべての子ども達が必要とする医療を受けられ、未来に命がつながるように、自分は働いて税金や保険費用を納めるんだ、そう思うと、明日から今までとは少し違った気持ちで仕事へ取り組めそうです。




今まで本当に何も知らなかったんだなぁ。改めて思いました。

くららをきっかけに、自分の中で知ることが増えていくこと、くららへの感謝と共に喜びを感じます。

2010年3月10日

救急車のサイレン

今日、仕事中、何度か救急車のサイレンをとても間近に聞きました。

今まで意識していなかったけれど、近くに大きな病院でもあるのだろうか。

くららと共に初めて救急車に乗った去年の12月17日以来、サイレンの音を聞くととてもドキドキして、そして乗っている人が、大人でも子供でも、一刻でも早く病院に着いて診て頂けるように、と願わずにはいられなくなりました。


アトム君は登園許可がおりて元気に登園しました。少し積もった雪に大喜びして、「くららちゃーん、ゆきだよーっ」と叫んでいました。

2010年3月9日

復職

昨日は復職初日でした。

水疱瘡のアトム君は、パパが在宅勤務をしてくれたのと近くに住む母とでみてくれました。

いつもよりかなり早めに支度を終えて、いってきます、と家をでて5分で家に戻りました。

パパが「おかえり~」と迎えてくれました。

久々のヒールで靴擦れができそうだから絆創膏貼る、とかゴチャゴチャ言い訳しつつ、無理しないでいいんだよ、とパパに言われて、やっと再び家をでました。

ふと振り返ると、ベランダからパパが手を振っていました。

早めに会社の最寄駅に着いて、なんだか気が重くてスターバックスで気持ちが落ち着くのを待ちました。

本当に誰にも会いたくない、誰とも普通に話せるほどまだ心に余裕がない、話そうとすると顔がひきつってしまう、そんな思いが気持ちを重くさせていました。

しばらくして会社に着くとエレベータホールで顔見知りの部長さんに会いました。
度々お仕事をご一緒したことがあり、ちょっと昔堅気というか口はとても悪いのけど内面は温かい方です。


「あれ、なにやってんだ、こんなことで」

第一声そう声をかけられました。

「育児休職明けで今日からなんです、よろしくお願いします」

そう伝えると「お、そうか、11時から会議あるぞ」そう行って上のフロアに上がっていきました。

引きつらずに、多分、普通に話せたように思います。

あ、大丈夫だ。くらら、ママ大丈夫に出来たよ。
それでなんだか勢いがついて席のフロアまで入っていくことが出来ました。

ランチは出産前によく通っていたカフェに行きました。

くららがお腹にいる頃よくここでお茶を飲んだなぁと思い出して、くららが生まれた8月31日のこと、その後のこと、色々と走馬灯のように思い出して、現実から離れた時間を過ごしました。

胸にいつもいっしょのくららのアッシュペンダントを触り、くらら、ママと一緒にいるよね、と心で何度も思い、午後の仕事の前には落ち着きを取り戻すことが出来ました。

大丈夫。

少しずつ、今の自分に出来ることだけ。

くららがお口からミルクを飲めていた頃、とてもゆっくりミルクを飲む子でした。

病棟で他の赤ちゃんたちが飲み終わっても、しばらく飲んでいたけれど、それはくららの個性。

常々、大丈夫、ゆっくり、くららのペースでいいんだよ、と話していました。

くらら、今度はママの番。
くららがいてくれるから、ママも、出来るペースで、ゆっくり。

2010年3月6日

病院

今日はくららがお世話になった心臓病の専門病院に行ってきました。

当初の目的はカルテを頂く手続きのため、でした。

カルテを頂こうと思ったのは、、

くららのビデオや写真、たくさんの記録を残したつもりが、思っていた以上に手元に残ったものは少なく、
くららについて記されたものは何でも手元に残したい、という思いが一つ。

そしてまた、くららの病気について、医療関係者を除いては誰よりも詳しく理解し、記憶しておきたいという思いが一つ。

そんな思いで、カルテを頂くお願いをすることにしました。

手続きは電話では出来ず直接伺う必要があるとのことで伺うことにしたのでした。

加えて、在宅ケア用のシリンジや注入筒、紙おむつが未開封でかなりの数があり、これらをご入用の方にお使いいただければ、と思い持っていきました。

長く使うもの、と考えていたので、シリンジは200個近くありました。単純計算すると、約7か月分です。

シリンジや注入筒は購入できる場所が病院の売店など限定されるので、実際に使う側にとっては、余分にあると購入する手間も省けます。
在宅で注入する患児さんに是非使っていただければと思います。

最初は注入をしていても手術や治療が進めば大抵お口から飲んだり食べたり出来るようになります。
使う患児さんが1日も早く元気になって注入から経口栄養になりますように。


病棟に上がるのはとても勇気が要りました。
エレベータの中で、引き返そうかと何度も思ったほどです。

でも、病棟の前に着いたとき、

「あっ、くららに会える」

そんな錯覚に陥りました。

入院時の付き添い以外は感染予防から病棟には入ることが出来ないため、師長さんや主治医の先生と病棟前で立ち話をしつつ、シリンジ類をお渡ししました。

その間も、中に入ればくららがいるような感じがして、病棟の中に入りたい、そう思いました。

ちょっとナチュラルハイのような状態で病院を出たとたん、ふっと錯覚が解けて、
帰宅後布団に倒れこんでしまいました。

そこにアトム君がやってきて、「ママ どうしたの」と。

いつもなら、さびしいとか会いたい、と言ったことはアトムの前では言わないようにしていて、アトムがそのようなことを言うときは「大丈夫、くららちゃん お空からいつもみてくれているんだよ」
と伝えています。

が、今日は思わず

「ママ、ちょっとさびしいの」

と口から出てしまいました。

するとアトムが

「どうして? くららちゃんがいないから?」

と聞いてきました。

驚きつつも素直に認めると、

「大丈夫、くららちゃん お空からみてくれてるよ。くららちゃん てんごくに
いるから」

と慰めてくれました。 2歳8ヶ月の息子に慰めてもらって、有難うと思う以上に、不憫な思い、息子の成長を感じる思い、愛おしい思い、何より申し訳ない思いなど様々な思いがいっぺんにやってきました。

そのまま眠ってしまった私ですが、その布団の横に、旅立った後の、でも肉体はそのままのくららが添い寝してくれている夢を見ました。

私は驚きつつも手でくららのほっぺに触れました。
やわらかい感触を確かに指に感じました。

目が覚めたとき、それが夢であったことに気がついて、寂しいと思いつつも、久しぶりにくららに触れることが出来て、なんだか嬉しかったです。


昨日のブログについて

昨日の遺伝カウンセリングの内容(http://urandemain.blogspot.com/2010/03/2_05.html)
について、なみさんからコメントを頂きました。

私にとってとても大事なコメントを頂いたので、コメントへの返信、という形ではなくて、ブログの中で
返信もかねて思いを綴ります。



なみさんから頂いた内容はまさにそのとおり、で、決して冷静ではない今の時期に、色々と行動を起こしていることが後で後悔を生む結果になる可能性あるかもしれない、コメントを頂いてから気がつきました。

本当に、突き詰めていくことで何かが変わるわけではない、頭ではわかっていつつ。。なんていったらいいんだろう、とにかく、今、「もがいている」 そういう状況です。

ただその一方で、「自分の中に原因を追究していく事=辛い作業」を、傷口に塩を塗るように、敢えて自分に課している感じもします。
これは実は半ば意識的にやっていることでもあります。

くららが旅立った日のこと、私にはどうしても自分を許せない大きな後悔があります。
そんな私には、家にこもってただくららを静かに偲ぶようなことは許されない、
もっと自分を苦しめなくちゃいけない、そんな風に思ってしまうときが時々あるんです。

今は誰にも会いたくない心境でありながら行動しているのも自分を戒める意味があるのかもしれない。

だからといって、辛い作業を繰り返して何かが変わるかと言われるとそこはわからないのですが。

くららの優しい目を思い出すと、「ママ、そんなことしたら駄目よ。自分を責めたら駄目よ」
と言ってくれているようにも思います。

くらら、でもこれはママが現実を受け止めるために必要なことだから。


遺伝カウンセリングについて、もし何らかの結果が出ても、夫婦どちらの問題かを知ることを目的にはしていないので情報として必要ない旨、担当の先生にはお伝えしました。
ただ、改めて、検査についてのパパの気持ち、少し時間を置いてから聞いて理解を深めようと思いました。

なみさん
本当に、真摯なメッセージ、有難うございます。
メッセージを頂いたことで、ふと地に足が着く、冷静さを取り戻す、そんな感覚を持ちました。
この冷静さを持続できるようになるのは、まだまだ時間がかかりますが、今あること、今やろうとしていることのその先を考えながら行動を起こす、そう思えるように少しずつ出来たら、と思います。

2010年3月5日

遺伝カウンセリング 2度目

アトム君は水疱瘡になりました。
予防接種をしていたので軽く済んでいますが、登園許可を病院で頂くまで保育園はお休みです。

来週月曜日から仕事再開の予定でしたが、現在色々と調整中です。

私の蕁麻疹もお薬頂いて回復傾向です。


昨日は慶應病院の遺伝外来に行ってきました。

色々な観点からお話頂き、結論として、夫婦で染色体検査(サブテロメア解析)を受けることにしました。

かつて不育症検査を受けた際にも染色体検査の話は聞いたことがありました。

私達夫婦の家族構成や状況では検査結果で問題点がみつかる可能性は限りなく低いので検査はしなくても良いのでは、と以前言われました。

今回も同様の説明を受けましたが、何か原因があって、例えばお腹の中にいるときからわかっていれば、くららを失わずに済む術があったんじゃないか、そう思う自分がいて、決してくららは帰ってこないのに、こうして遺伝外来に来たり検査を受けようとしたりしています。

でもそのプロセスを踏んでいる時間の流れは目の前の時間を生きる支えになります。



明日は、くららの旅立ち以来初めて、心臓病の専門病院に行く予定です。
カルテを頂く手続きが主な目的ですが、行くのはとても怖いです。
いつになっても、あの日のことを思い出してしまうんだと思います。

つらかったら当日電話して日を改めてればいいしね、という主人の言葉に背中を押してもらって、行けそうなら行ってきます。

生きがいの創造

「生きがいの創造」という本を読みました。

以前一度読んだことがありましたがあまり記憶に残っておらず、今回初めてきちんと読みました。

この本はスピリチュアルな印象の本ですが、福島大学の経済学の先生が書いている、というところが興味深く。

若くしてこの世を去る人々について書かれた章で

「自分が死ぬことによって両親や家族の精神的成長を早めるという役割を果たしたことに、大いに納得し、両親達を激励する。
親にとって、子どもの死ほど精神的に成長できる貴重な試練はほかにないためである。
しかも、決して永遠の別れではなく、かならず再会することができる」

とあります。

くららを失わなければ得られない精神的成長、、、
失わずに済むような熟した精神を持っていたら、、、、、

でも確かにくららに出会えて、小さい体で治療を頑張りつつ、いつも朗らかな姿を見て
「ただいてくれるだけで、生まれてきてくれて有難う」
という思いでした。

それだけに、旅立った後に続いている喪失感に加えて、くららが生まれる以前に持っていた価値観・考え方とは大きな変化がありました。


そしてまた、かならず再会できる、という一文を何度も何度もすがる思いで読み返しました。

「生まれかわりのしくみ」の章には、過去に良好な関係があった間柄では、また親子や夫婦といった協力関係を築くことが出来る、とあります。

くらら、絶対に絶対にまた家族になるよね、来世だって再来世だっていいんだから。

2010年3月3日

雛祭り2

3月に入ってから、くららにはミルクの他に、離乳食としておかゆを始めていますが、今日はやわらかめのご飯で作ったちらし寿司にしてみました。



いくらや菜の花はまだ無理ですが、彩りということで。。



アトム君がその分もりもり食べていました。


姉からくららにお雛様のお菓子を貰いました。



初節句ということもあって本当に皆様にお祝いしていただいて、華やかな雛祭りとなりました。

くらら、皆様に「ありがとう」しようね。

明日は、遺伝カウンセリングのセカンドオピニオンです。

復職前のリハビリの意味合いで今週は忙しく用事を入れてみましたが、蕁麻疹もあって力尽きて来ました。
来週月曜日を前に疲れてどうするんだろうか。。

ママ無鉄砲だったね、くらら。


くららを送り出した2月1日、くららには、麻の半そでのブラウスにピンクのフワフワのドレス、その上から白いボレロを着せました。ドレスは雛祭りに着せてあげようと思い、70cmサイズのものを購入していましたので
それを。

あの日、そのドレスはサイズピッタリで、今日まで置いておいたら小さくなって入らなくなっていたかもしれません。

体重増加不良の症状が出ていたのに、きちんと身長は伸びて成長していたことに嬉しく、またそれだけに余計に悔しく感じたことを思い出しました。


そのドレスを着て、ピンクの靴下を履いて、元気に立って歩いているくららの姿が、日中目に浮かびました。
歩いているから2歳ぐらいにはなっているはずなのに、髪の毛だけはあの日のまま短いまま。
でもそのアンバランスさがまた可愛く感じました。

笑顔のくらら、とても可愛かったです。

雛祭り



今日はくららにとって初めての雛祭りです。

友人から、くららへ、と名古屋 長寿園さんの雛祭り菓子「おこし餅」が届きました。

食べるのがもったいないような、くららのほっぺような御餅です。

お雛様・鯛・菱餅・桜・桃・梅・熨斗の7個のお餅が入っていましたが、梅と熨斗は
姪っ子ちゃんにおすそ分けしました。

焼いてから砂糖醤油につけて食べるのがオススメとのことですので、早速アトム帰宅後に一緒に作ろうと
思います。

くららも6ヶ月になりましたので、お味見でペロっと舐めることができると思います。

メッセージには、「くららちゃんへこころばかり」とあります。

Cちゃん、Tちゃん、くらら宛に、、あったかいです。有難う。



そしてもう一つ贈り物が。

友人Kちゃんから本が届きました。
Kちゃんは社会人1年目の会社の同期でコンピュータ系の職種だったのですが、一念発起して会社を辞めて
地元の九州に帰って保育士の資格を取り、今は保育士さんとして働く根性の塊のような女性です。

もう10年以上会っていないけれど、いつになっても一緒に仕事をしていたときのように、ラフにメールや電話でコミュニケーションが取れる貴重な存在です。

本は4冊入っていました。
・千の風になって ちひろの空
・わすれられないおくりもの
・なきすぎてはいけない
・ふくろうくん


「わすれられないおくりもの」は皆が大好きだったアナグマが死んでしまうのですが、皆の心の中に素敵な思い出が贈り物として残るお話です。

アトムはこの本が大好きで、眠る前の本読みでは「アナグマのご本読んで!」と言っています。
死ぬということはまだ理解できていないけれど、アナグマどこいっちゃったの?どうしていなくなったの?
としきりに疑問を口にしています。

「泣きすぎてはいけない」は仲良しだった孫へのこの世を去ったおじいさんからのメッセージです。

「ないてもいい
さびしいのだもの

でも泣きすぎてはいけない
わたしがすきなおまえは
わらっていたおまえだから」

そうだよね、くらら、泣いてもいいんだよね、泣きたいときは泣いていいって、
ママは最近そう思う。

パパもそう、夜中にふっと泣いてるけど、泣いていいの。
でも、パパもママも泣きすぎないようにきをつけるね。

くららが心配するといけないからね。




「千の風になって」の挿絵、緑の帽子をかぶった女の子が書いてありました。
くららの後姿に見えました。何年かたったら、こんな女の子になっているんじゃないかと思いました。

2010年3月2日

蕁麻疹

4日ほど前から、蕁麻疹がでてます。かゆい、、。

顔には出ないのですが、腕や足、背中など。。


食べ物?と思っていたのですが、一向に良くなる気配が無いので、、、明日皮膚科に行って見ます。


かゆい。。

2010年3月1日

復職前面談

復職前面談のため会社に行って来ました。

7ヶ月ぶりの通勤経路、片道1.5時間ぐらいなのですが、なんだかとても遠く感じました。

上司の秘書さんが気を利かせて下さったのか、皆のいる社員用会議室ではなく、お客様向けフロアの会議室だったので部署の仲間に会うことなく帰ってきました。

正直なところ、今はまだ、出来るだけ誰にも会いたくない、というか、
明るい顔で「大丈夫大丈夫!」という風にはまだ出来そうにないし、どう対応すべきか考えること自体が億劫な段階です。

そしてまた、逆の立場だったら、なんて声をかけたらいいかわからず、気を使うことになると思います。
気を使っていただくのも忍びないので、顔を合わせないのが一番かな、、と思って。

面談の結果、復帰は来週3月8日からに確定しました。


去年の今頃はマタニティウェアではないもののゆったりとした服装ばかりでしたので、2年前の服を引っ張り出さなければ、、サイズ大丈夫だろうか、
と帰り道色々と復帰に向けて考え始めました。

それで思い立ち、その足で、5ヶ月ぶりに美容院に行きました。

今までずっとお世話になっていた美容院は、私がくららを身ごもっていたことを知っています。
くららのことを聞かれたらなんと答えたらよいか、考えがまとまらず、
正直に伝えるほどの深い親しさはなく、でも丸っきりの嘘ではくららの存在を汚してしまうようで、
結局別のところに行くことにしました。


美容院にずっと行っていなかったのには理由があります。
くららの心臓の修復手術が終わって保育園に通えるようになるまで、くららのそばを離れるのは原則30分以内、と何故か自分で決めていました。

それはくららが元気なときから、そう決めていました。


美容院は、シャンプーやらカラーやら一度来ると中座が出来ないので、所要時間が長くかかります。
それで、どのくらいの期間行かないで済むかちょっと実験も兼ねて行っていませんでした。

前髪は自分で切っていたので、外来で主治医の先生に

「お母さん どうしたの、その髪型」

と言われたこともありました。。。

話はそれますが、主治医の先生もあまり私のことは言えなくて、朝起きてもブラッシングしないで済むヘアスタイルにしてもらっている、とのことで、ヘアブラシもドライヤーも持っていない、と誇らしげにおっしゃってました。ちなみに女性です。

美容院についてカラーをしてもらっている間に、

「こんなにゆっくり出来るようになってしまった」

と突然また悲しみがやってきて、涙が出てしまいました。

美容師さんには花粉症なもので、、と適当に誤魔化しましたが、その後花粉症の話が続いてしまい、あまり詳しくないのでちょっと焦ってしまいました。


仕事がこのタイミングで始まるというのは、今の私にとってきっと必要なことだからなんだろうと思います。仕事は厳しいもので気晴らしに利用するものではないけれど、それでも、今は仕事で時間を費やすことで
時間が流れてくれる、だから復帰する、そんな感じです。

久しぶりに長時間の外出でした。

ずっと夜はなかなか寝付けなかったのですが、くららのあくび姿を思い浮かべながら、
今日は眠れるかも、、ね、くらら。 また夢に出てきてね。


昨日 2月28日のブログ

昨日のブログ、
私の表現力の乏しさからか、誤解を招く内容になってしまったようです。

パパとアトム、くららと私、家族4人でだけ頑張ってきた、というように伝わってしまったようですが、
そんなことはありません。

パパと私のそれぞれの親族、友人、ブログを通じて応援してくださった方々、皆様と共に頑張り、皆様の励ましにより本当に支えられてきました。

私達家族を支えて、想ってくださった方々に改めて感謝いたします。
本当に有難うございます。

きちんと昨日伝え切れておらず申し訳ありませんでした。これからもよろしくお願いいたします。

仕事

今日は復職前面談のため、約7ヶ月ぶりに会社に行きます。

色々と緊張を感じます。