2010年6月30日

月誕生日 0歳10ヶ月

今日でくららは0歳10ヶ月になりました。


今頃、ハイハイで自由に色んなところに移動してることでしょう。

色々と食べられるものも増えてきてるはず。


月命日に、母からくららに黄色いスイカをもらってので、くららのお膳にスイカも載せてみました。


姉から、月誕生日に、と可愛いウサギの小皿と「K」のイニシャルの入ったメッセージカードをもらいました。

忙しい日々の生活の中で、くららの成長を気に留めてくれていること、本当にありがとう。




あと2ヶ月で1歳のお誕生日。


くらら、家族みんなでお祝いしようね。

2010年6月29日

アフガニスタン、小児の心臓移植施設

夜ニュースを見ていたら、アフガニスタンの小児医療施設の特集をやっていました。

劣化ウラン弾の影響により、小児ガンや腫瘍、先天性疾患を持つ子供が急増し、アフガニスタンでは6人に1人の割合で乳児死亡が起きているそうです。

生後4ヶ月の赤ちゃんのお尻には、頭と同じぐらいの大きな腫瘍がありました。

生後2ヶ月の赤ちゃんは生まれつき眼球がありませんでした。


何の罪も無い子供たちがどうしてだろう。

私に何ができるだろう。

壮大すぎることはわかっているけれど、でも願わずにはいられないこと。

色々な争いがこの世の中から無くなる事はないのは仕方の無いことだけど、
武器や兵器を使って傷つけあうようなことは世界中からなくなってほしい、
無垢な赤ちゃんたちがそういった傷つけあいの犠牲になることのないように、と心から思います。




改正臓器移植法の施行が目前に迫り、小児の心臓移植施設として東大病院、大阪大病院、国立循環器病研究センター(大阪府)が認定されたとのことです。

この3病院は、既に成人の心臓移植施設として認定されている病院でもあります。

一方、小児の心臓治療で大変有名な東京女子医大、岡山大、九州大は申請していましたが、成人の移植実績の不足等から今回は認定が見送られたとのことでした。



今「孤高のメス」を読んでいることもあり、移植施設の認定も利害関係や大人の事情によって、認定可否が変わるのかな。。なんて少しだけ勘ぐってみたくもなりますが。。


何はともあれ、日本においても小児の移植医療が現実のものとなるべく、1つ1つ、何かが決まったり検討され、動き始めてる、凄いことだと思います。


http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100628-OYT1T01070.htm

2010年6月28日

5回目の月命日

ついに、くららの生きた時間、4か月と28日を、旅立ってからの時間が追い越してしまいました。


約5カ月、人生の長さにしては本当に短いけれど、私たち家族の中に生きるくららの存在の大きさを思うと、人生は長さではないと本当に思います。



いつ、どんなときでも、一人じゃなくて語りかけたり話を聞いてくれる相手がいることは、人をとても強くしてくれると思います。


でもこのごろ少し反省する面もあって、つい生き急いでしまう、というか、毎日毎日が人生最後かもしれない、くららがあれだけ必死に生きたんだから、私も精一杯生きなきゃ、という思いが強く出て空回りしてしまうことが何度かありました。

仕事でも家の中のことでも、結果を早く求めてしまいがちになったり、とりあえず優先順位を下げておきましょう、というような、「とりあえず」的なことが納得いかなかったりすることがあったり。



周囲の人はこれまでと変わらないペースで過ごしているのに、自分と同じ感覚を求めてはいけないのに。私だって今はそうだけど、悲しいかな人間なので時間の流れとともに、また元々の生きるペースに戻りそうな気もするのに。

無意味に必死に空回りして生きることをくららは望んではないはず。
地に足をつけて、毎日を大切に生きる、人生をくららと一緒に楽しんで生きる、そういうシンプルなことが大事なことなはず。

この空回りが一過性のもので終わりますように。




今日は久しぶりに少し残業をして、人もまばらな道を自宅に向かって歩いていて、ふと去年の今頃を思い出しました。


「去年の今頃」を、ここしばらくは敢えて考えないように意識していたのですが、何故だか自然に去年の今頃、同じ道を歩いていた光景が浮かんできました。

お腹の中でとても元気によく動いていたくらら。
毎晩遅くなってしまい、ちょっと無理しすぎていたけれど、お腹が張ったり、早産の傾向もなく、
とてもおりこうさんにお腹の中で過ごしてくれていたくらら。


あの頃に戻りたいなぁ、、一瞬そう思いました。


これまでも、くららがお腹の中にいた頃に戻りたい、と思ったことは何度もあります。

その都度、くららがこの世に生まれてきて、くららの人生をかけて教えてくれたこと、笑顔や話し声、遊んでいる姿など沢山の思い出がリセットされてしまうのも悲しすぎるから、やっぱり戻らなくていいのかもしれない、そう自分に言い聞かせてきました。



穏やかな春のお天気やちょっと蒸し暑い梅雨時を一度も経験することなく、秋と冬だけを過ごして旅立ったくらら。

くらら、
春と夏を経験させてあげられなかったこと、ごめんね。
今は一年中穏やかなお天気の中で過ごしていると思うと、安心します。




先日のアトムの誕生日に、母が「くららにもプレゼントね」といって、ノースリーブの80cmのワンピースをくれました。

この袖から、赤ちゃん特有の白くてムチムチした腕を出したくららを想像して、可愛らしく、切なく、
会いたくなって泣けてきました。

2010年6月23日

Yちゃん

くららと病棟で一緒だったお友達が、今月上旬に天国へ旅立ったお知らせを聞きました。


くららが1月に救急車で運ばれて、数日入院したときに逢った時には、とても元気に回復しているように見えました。


丁度お誕生日だったSちゃんの誕生日ケーキをおすそ分け頂いて、ナースステーションの前で皆で食べました。


病棟内を移動するコットの上で、ちょこんとおりこうさんにお座りするYちゃんの姿が目に浮かびます。

ポニョそっくりのYちゃん。



Yちゃんのご冥福を心からお祈りします。

2010年6月22日

アトムの誕生日

先日夕飯が終わりデラウェアを食べていたアトム君が、小粒の実を二つつかんで

「ママ、これちっちゃくて可愛いね、くららちゃんみたいだね」

といいました。

私から見たら、アトムもくららも同じように小さくて可愛いと思っているのですが、アトムから見たら、くららは更に小さくて可愛い存在なんだなぁと新たな発見でした。

そんなアトムは今日で3歳になりました。

生まれてきてくれて有難う。

2010年6月20日

フォトブック

復職してから困ったことの一つに、見たいときにくららの見たい表情を見ることが出来ない、ということでした。

アルバム3冊分でしかなかったけれど、くららの全人生、4ヶ月と28日、ICUに入っていたときを除いてほぼ毎日のくららの色々な表情。


それを全部持ち歩くわけにも行かず、かといって電子ファイルで見る写真と、実際に印刷された写真とでは、なんだかくららとの距離感が違いました。 断然印刷された写真のほうが、リアルなくららだと感じました。

そこで、、色々調べたりして、くららの写真全部を3冊の文庫本サイズのフォトブックにしました。

文庫本サイズなので毎日持ち歩けるし、電車の中で本を読むようにして写真を見ることも出来ます。

お昼休みには色々な写真を見ながら心の中でくららと会話も出来ます。

元気が無くなっていくくららや、急に気温が下がった日には調子の悪そうなくららなど、胸がしめつけらる写真もありますが、家族揃って暮らし始めたときの元気で酸素チューブもつけてないくららや、裸でアトム君と戯れるくららなど、一人でいても笑みがこぼれたり、元気をもらえるような写真もたくさんあります。


宝物です。














中を開くとこんな感じです。







文章を入れることも出来るし、写真だけのページもあります。

2010年6月17日

きなちゃん

渡航移植のため募金中のきなちゃん(http://urandemain.blogspot.com/2010/05/9.html)

昨日天国に旅立ったそうです。



ご両親、お姉ちゃん、ご家族の思いを考えると、言葉がありません。

2010年6月16日

フォローアップミルク

もうすぐ10ヶ月になるくらら。


9ヶ月になってからおかゆやうどんをあげるようになったので、最近ミルクはフォローアップミルクに変えました。

アトムのときは、ミルク缶に付属のスプーンが黄色だったのですが、今回同じメーカーのものを買ってみたら、可愛いピンク色のスプーンになっていました。


ピンクが好きなくらら、きっと喜んでることと思います。


2010年6月14日

「救児の人々」を読んで

「救児の人々」(ロハスメディカル)を読み終わりました。

くららが旅立ってから、くららの病気について学んでいく中で、NICUや小児医療の現状・問題点についても情報を得たり理解を深めていくことがライフワークのようになっています。


今はただ理解していくだけの段階ですが、それを積み重ねた先に、いつか
病児やその保護者が孤独に陥らず、より暮らしやすい世の中になるために、自分に何が出来るかを模索し、実践していきたいという思いがあります。


AMAZONに掲載されているこの本の紹介を抜粋・引用します。

「軽蔑していいですよ。子供が助からない方が、よかったのかもしれないと思うことがあるんですよ……。昔だったら医療がこんなに発達していないから、小さい赤ちゃんは助からなかったと聞きますよね。あの子は私みたいな親の元で障害を持って生まれちゃって、かわいそうですよね……。
~私が思うのは、『産んでしまって、ごめんなさい』なんです。こういう気持ち をどうすればいいのか、本当に分からなくて、助けてほしいですよ。

~医療者たちが過労死寸前まで働いて築き上げた世界有数の新生児医療があったからこそ、子供は助かった。

~高度に発達した医療技術と、その一方で存在する福祉の貧困。その狭間で苦しみながらも、生きることの喜びを見出そうとする患者家族と医療者の生の声。」


NICUで救われた子供の両親、医師や看護師など医療従事者、様々な立場の方の、綺麗ごとではない、生の声を綴った本です。

紹介文冒頭のお母さんには共感する部分がいくつかありました。

くららが生まれ病気がわかったとき、健康に産んであげられなくて本当にごめんなさい、と私も何度もくららに謝りました。

「お母さんが何か気をつけたりしても防ぐことが出来たものではなく、原因は今もって不明で一万人に一人の確立で生まれる病気です。」

そんな風に、新生児搬送された最初のNICUでも、転院した心臓病の専門病院でも、ほぼ同様に、先生方が慰めの言葉をおっしゃっる度に、余計に申し訳なさが増してきました。

原因がわからなくたって、産んだのは私ですから、私に責任があります。

そう思いました。




読み終えて思うのは、この本には、今の日本の問題が凝縮されているといっても言い過ぎではないということ。


少子化で出生率は年々下がっているのに、NICUのベッド数は常に不足しており毎年増床傾向にあります。

そこには女性の社会進出に伴う高齢出産化、心身のストレスからくる不妊、流産、早産など順調ではない妊娠経過の増加も因果関係として見え隠れします。


冒頭のお母さんが本の中で言っていた様に、自分にもしものことがあったら、この子はどうなるんだろう、
という思い、私も自宅での看護をしながら、同じような思いを抱き、不安でいてもたってもいられなくなったこともありました。

子供に限らず、自宅での介護、看護はとても孤独で、まずは家族で出来るだけのことをする、その次に必要であれば第三者の手を、そんな風潮がまだまだ日本には多く、また利用できる福祉も十分では無い様に思います。


くららは心臓疾患ということもあり、対応できる訪問看護士さんがおらず利用は出来ませんでしたので、24時間私と主人だけで看護でした。経鼻胃チューブの挿入など主人は習っていない手技もあったので、私は絶対に風邪を引いたり病気にならない、なってたまるか、毎日そう思っていました。

でも、本音を言えば、たまに、本当に疲れてしまって、3時間でいいからまとめて睡眠とりたい、そう思ったこともありました。

この本によると、常に痰の吸引や呼吸器管理が必要なお子さんであっても、訪問看護士さんは週2回、90分程度の利用しか出来ないとのことでした。NICUを退院して自宅に戻っても、その後の生活が一生続く中で、親が孤独で心身ともに負担を抱えて生きていかなければいけない、例えばそんな思いを吐露する場があるだけでも大きな支援になると思いますが、そういう面での医療、福祉すらないのが現状です。


NICUを出たとたんに色々なはしごが外され、両親、特に母親が孤独な看護をしていかざるを得ない現状、
子供は社会の財産というけれど、終身雇用が崩れ、経済が不安定で非正規雇用が増え各々の明日の生活さえ不安な世の中で、他人の子供について温かい目で、「皆で育てるんだ」なんて気持ちを持てというほうが無理かもしれない、そんなことを考えさせられる本でした。



先日、会社の帰りにこんな光景を目にしました。

19時台の電車でひどく混雑していました。赤ちゃんを抱っこしたお母さんと白髪のご婦人が空いた座席を譲り合っていました。目の前には、ビジネスマン、ワーキングウーマンが携帯を触ったり、本を読んだり、熟睡したりして座っていました。

なんだか悲しい光景だなぁと思いました。

日々の生活に他人を思いやる余裕があって、高齢者や子供は社会全体で支えるんだ、と思えれば、赤ちゃんもお母さんもご婦人も三人とも座ることができるはずです。

でも、そんな余裕が無いほど、世の中が疲れてるんだなぁと。

私だって例外ではなく、今回はその光景に気がついたけれど、別の日には運よく座れて熟睡してしまっているかもしれない。


この本の中である医師がいっています。

「医療者や病児の家族のしっかりした想いや意見を「未来の当事者かもしれない、NICUを知らない社会の人」
に伝える努力をすることが必要。NICUに足を踏み入れたことの無い人も、当事者になってから考えるのではなく、普段から関心を持ってもらうことが大事。」

自分が当事者になったことの無い環境、立場をいかに想像してその問題を真剣に考えられるか、NICUに限ったことではありません。障害者に冷たいといわれる日本、高齢化社会、少子化・・・・深く考えさせられます。

美香子ちゃん

TBSの「ひるおび」で放送された美香子ちゃんの特集がYouTubeにアップされているそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=Me51-I-4HNo


美香子ちゃん 手足が拘束されている姿は本当に痛々しいです。

偉いね、頑張ってるね。絶対大丈夫。

みんな日本で待っています。

2010年6月13日

くららと二人だけの時間

少し前から、毎週土曜日、90分だけ、ある勉強を始めました。

どんなに忙しくても、この週に一度の90分と、そしてこのブログを書く時間は、くららと私 二人だけの時間です。

会社の中の一員、妻、アトムの母、娘としての私、色々な立場がありますが、そういったあらゆる立場にいながらくららの母としても存在するのではなくて、
「くららの母親としてだけ」存在する時間を日常の中に組み込むことで、とても穏やかな気持ちになるんだなぁ、と感じています。

2010年6月11日

カルテー外来の記録-

くららに関することはすべて持っておきたいことはもとより、
自分なりにくららの病気をもっと詳しく把握し、日本以外の国ではどう治療されているのか(修復手術よりもまずは移植なのか等)学んでいくことをライフワークとしたい、そのために医学的データを持っておきたい、そんな思いでカルテ開示請求をしました。


でも実際に手にしてみて思うのは、、くららの状態に向き合うよりも、いつも数歩遅れて、ついていくのに必死な、不安定で頼りない自分を振り返ることになりました。



病院から頂いたカルテは、前半が入院中の記録、後半が外来と電話相談の通話記録になっていました。


「いつ電話しても、誰が受けてもわかるようにしてあるから」


主治医の先生が常々おっしゃってくださっていた言葉通り、ほぼすべて電話相談も記録して下さっていました。


年が明けてからは、こんなにかけていたの?と思うほど、電話の数が増えていました。

そのときは意識していませんでしたが、家にいて判断を誤って、くららが旅立つ時期が早まってしまったたらどうしよう、という不安が電話内容に現れているようでした。


「こんなにつらそうなのに、何もしてあげられることはないんでしょうか。
トリクロ(鎮痛剤)を使いすぎて中毒になったらどうするんですか。」


旅立ちの数日前にはそんなことも言っていたようです。

今思えば、もう怖くて仕方がなくて、くららとの別れを考えなければならない時期にきていたのにそれを否定したくて、先生にやつあたりになってしまったように思います。



「できるだけ鎮静剤で眠らせてあげることで少しでも辛さを緩和してあげることが、いまのくららちゃんにしてあげられることです。」

主治医の先生ではなかったですが、電話にでられた先生が冷静に答えて下さいました。


そして、1月27日。

「急に元気が無くなったようで、意識はありますが、いつも遊ぶベビーチェアのおもちゃにも全然興味を示さず、表情も苦しそうです。もう入院したほうがいいでしょうか」
と電話をしました。

幸い主治医の先生が電話に出られて

「入院はミルクが消化できなくなってからで大丈夫。それまではお家で過ごして大丈夫ですよ」
と答えてくださいました。

ミルクが消化できなくなるのが一つの節目で、そこに来たら入院、そんな風に思っていました。

だから、その翌日28日に旅立つなんて、全然予測できませんでした。


カルテから、くららと過ごした日々を振り返り思うのは、
自分が、こんなに心の余裕無くいっぱいいっぱいになっていた、ということ。

こんなことでは、くららは毎日安心出来なかったのでは、と悔やみます。

もっと心の余裕を持って、くららを見守り、支えてあげたかった。

心穏やかに安心して最期の時を迎えるよう、見守ってあげたかったです。

ごめんね、くらら。



冷蔵庫にずっと入っている鎮静剤のエスクレ坐薬とトリクロシロップです。
いつかは処分しなければいけないけれど、まだ出来ません。


1月7日の外来で1か月分の処方として頂いた際、こんなにたくさん?!と驚きました。


でもそれぐらい処方が増えていて、以前は頓服だったトリクロが、6時間おきに5mlずつ、6時間空けずに効用が切れてつらそうなら、随時頓服でエスクレを、と言われました。

こんなに小さな体でこんなにお薬がたくさん、、本当にただただ申し訳ない気持ちで一杯になったことを思い出します。

2010年6月8日

愛する人のところ

とある雑誌で瀬戸内寂聴さんがおっしゃっていた言葉がとても心に響きました。

「死んでも、死んだ人の魂はこの世に残した一番愛する人のところに来ている」


くらら、ママの思い込みかもしれないけれど、くららはママのところに来てくれている、ママはそう思っています。そう強く思える日は、なんかとても元気です。



美香子ちゃん

これまでも何度かブログでも書かせていただいた1歳の可愛い女の子です。渡航移植を受けて、現在アメリカで移植後の回復治療中です。(http://urandemain.blogspot.com/2010/04/blog-post_15.html)

ずっと美香子ちゃんのママのブログで、移植後の様子を伺ってきて、とても心配でした。


美香子ちゃんを救う会(「http://mikako-bokin.com/)によると

「6回もの手術を行い、6月7日現在、ICU(集中治療室)に約2ヶ月間入らざるを得ないという想定外の事態となっています。」
とのこと。


ICU、くららも人工心肺を使う大手術の後、約1週間お世話になりました。

Intensive Care-文字通り集中的なケアが必要な重篤な状態であることはもちろん、治療に要する人員(日本では、患者さん対看護師さん比率は確か2:1、病院によって多少違うのかもしれません)や高度な治療、高額なお薬で、¥100万/日のコストとも言われています。

日本では国民皆保険で患者さん側の負担はかなり少なくて済みますが、アメリカでは自費になってしまいます。


移植後の予測つかない体調の変化という移植医療の険しい道に加えて、渡航移植ということで治療費の工面という問題も積み重なります。


美香子ちゃん 元気な笑顔で帰国できる日を信じて、応援しています。

2010年6月4日

くららのヒブワクチン

去年の9月末に最寄のクリニックで予約したくららのヒブワクチン、やっと接種の順番が来ました、と今日クリニックから留守電が入っていました。

約8ヶ月の待ち時間でした。


明日もう接種の必要が無い旨連絡を入れようと思います。



それにしても、ヒブワクチン、本当に供給数が少ないんだなぁと実感しました。


最近、小児が必要な医療が受けられない現状に、何故?と思うことが度々あります。

まだまだ勉強不足で明確な理由を理解していないこともありますが、
日本以外では公的接種になっているヒブワクチンが日本では任意で且つ圧倒的に供給数が不足していること、小児用補助人工心臓が日本では認可されておらず大人用人工心臓をつけるしかない現状であること、そして移植の問題。


新生児医療、新生児の救命率は世界でトップクラスと言われる日本なのに、救命された後の道が急に険しくなるのはなぜなんでしょうか。


週末は「救児の人々~ 医療にどこまで求めますか」という本を読みます。