2010年2月28日

2月28日

今日でくららが旅立ってからちょうど1ヶ月が経ちました。

もう1ヶ月、まだ1ヶ月。。


くららが旅立った1月28日、見送りをした2月1日は雪が、そして今日は朝から冷たい雨が降りました。

くらら、お空から、気配を伝えてくれているの?


くららが余命宣告を受け、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンを受けてもナチュラルコース以外取るべき道が無い、と言われたときに、くららに幼児洗礼を受けさせることにしました。

主人も私も無宗教で、主人の実家にお墓はあるのですが、お墓の場所もよくわからず、主人は何十年もお参りしていない、というぐらいちょっとフトドキものな感じが否めない夫婦でした。。。

でもくららのことがあって、色々と考えました。

高校生の頃、キリスト教の学校に通っていた当時、シスターから「ルルドの泉」での奇跡(不治の病の方が奇跡的に回復した話)を聞いたりしたこと、洗礼とは何たるか伺ったこと、初めて参加したクリスマスミサのことを思い出しました。

ルルドの泉については、当時、そんな絵空事、、という風にさえ思っていた私ですが、今目の前にある事実を覆せるかもしれない、そんな思いすら抱くようになりました。

兎に角奇跡を信じたかった。

そしてまた、考えたくは無かったですが、突然くららがこの世を去ることになったとき、一人ではきっと寂しいに違いない、私は付き添うことが出来ないかもしれない、どうしたらくららの寂しさを最小限に抑えられるだろう、ということも考えました。

それで幼児洗礼を受けさせることにしました。

洗礼についてはパパともよく話し合い、パパは快く賛成してくれました。

教会は、母校のホームページを辿って、自宅近くの教会を見つけ、神父様に、両親、親族に信者はいないけれども洗礼が受けられますか?と伺ったところ快く受けてくださいました。

神父様は、くららの体調を考慮し、小さなお部屋をご用意下さり、またベールも何もすべて教会のものを貸してくださり、時間も10分程度に短縮してくださるなど温かなお心遣いをして下さいました。

頂いた洗礼名はアンジェリーナです。
「守護の天使」という聖人から頂いた名前で、エンジェルのイタリア幼名(大人はアンジェラ)だそうです。
なんだかくららにピッタリだと思いました。


このことについて、主人のご両親には説明する機会を逸しており、葬儀の前日に主人から話して貰いました。
既にお墓もあることですし、色々と戸惑いや質問、もしかしたら事前相談の無かったことに咎める思いもあったかもしれませんが、一切触れずに快く葬儀のミサに参加してくださいました。


キリスト教のミサは本当に遺族を重んじてくださるものだと感じました。
(もちろんそれぞれの宗教にそれぞれの特徴と故人を偲ぶ思いがあると思います。
あまり他のことをよく知らないので主観的な思いです)

葬儀のミサに際して、事前に教会に挨拶に伺うことも無く、すべて電話で手続きを済ませることが出来、
くららの旅立ちから見送りまで、ずっとくららのそばを離れることなく、くららのことだけを考えて過ごすことができました。

また聖歌を知らない家族ばかりですので、当日はボランティアの方が聖歌隊として来てくださっていました。


何よりも葬儀の間に、何度も
「アンジェリーナくらら」
と、くららの名前が呼ばれ、くらら天使になったのかな、本当に皆でくららのために祈りをささげているんだ、そう思いました。



そして先日、、仏事でいうところの四十九日法要のようなものはどうするんだろう、
と教会の方に相談したところ、亡くなって1ヶ月に「追悼ミサ」というものがあるとのことでした。

葬儀のミサのように身内でも行えるし、日曜日の一般のミサに組み込むことも出来るとの説明でした。

パパと相談して、パパとアトムと私の3人だけで、一般のミサに含めてもらう形にしました。

私やパパの親族にも、くららは本当に愛してもらっていました。
だからこそ、ミサという形で、くららのいない現実や悲しみを呼び戻すよりも、くららは家族4人揃って仲良く暮らしてる、という風に思ってもらい皆には日常生活に戻ってもらいたい、エゴかもしれないですが、そう思ったからです。


パパとアトムと私は、くららの家族です。
今はまだ、そしてこれからも、自分たちの生活からくららの存在が消えたことを受け入れるのが難しい状況ですし、生活を共にしてきた記憶の中で、時間をかけて、いないことの寂しさに慣れていく必要があります。


山崎まさよしさんのOne more time, One more chanceではないけれど、
電車待ちのホームとか、明け方の空とか、本当に色々なところでくららを捜しています。

そんな風に現実の中でくららを探しながら生きていくのは、私達家族3人で、という思いから、追悼ミサを含めて今後のミサの参加も家族3人で、そう決めました。

一般のミサでしたので、チリの地震についてもお話もありました。
くららの祈りをささげた後、チリで被災した方々にも祈りをささげました。


余談ですが、パパは楽譜が読めません。
だけど、手渡された楽譜を見ながら、間違えながら蚊の鳴くような声で聖歌を歌っている姿は、
くららとアトムのパパとして誇らしく、またカッコよく思いました。



洗礼式の時の写真です。
くららのお洋服は、アトムのお宮参りのときの衣装を着ました。
私が背負っているピンクのリュックには、くららの携帯用酸素ボンベが入っています。
くららはすやすやねんねです。





ベールは教会で貸して下さいました。

2010年2月27日

小児臓器移植セミナー

今日は日本循環器小児科学会主催の「緊急 小児臓器移植セミナー」に参加してきました。

http://jspccs.umin.ac.jp/top_link/2009/091215.html

そうちゃんママのなみさんのブログにて紹介があり機会を知ることができました。

なみさん
いつもありがとうございます。
http://ameblo.jp/sounami/theme-10012261457.html

9時から17時30分の長丁場でしたが、時間を感じることなくとても有意義な機会でした。
くららも一緒に聞いてくれていたように感じます。

会場では、くららがお世話になった病院のY先生にもお会いしました。
くららの担当では無かったのですが、病棟でよくお会いしていたこともあってか、くららのことを覚えていて下さいました。
(男性なのですが、話し方も物腰も女性のように柔らかな先生です)

セミナーの内容や感じたことは少し時間を取って自分の中でまとめてから書こうと思います。

品川での開催で駅のそばに和菓子屋さんとお花屋さんがあったので、
くららに桜のお菓子、桜餅とお花を買いました。



お花はスイートピーばかりピンク、白、赤を買ってみました。同じ種類のお花ばかり3種類どうかな、とも思ったのですが、意外といいかも。くららが好きそうな雰囲気になりました。
どうかな?くらら。

2010年2月26日

赤ちゃんを救え!を読みました

加藤友朗先生の「移植病棟24時 赤ちゃんを救え」読み終わりました。

これまで、移植は病院から治療の選択肢として提示されるもの、という固定観念がありました。
でも実際には、日本においては主治医の先生や病院側が提示するものというよりは、親が自らその選択肢を探り、道を拓いていくものであることを知りました。
(理解が誤っていたらすいません。。)

大橋陽佑ちゃんや神達彩花ちゃんが重篤な状態の中渡航し移植を受け頑張っている描写は、その健気さに心を打たれ目頭が熱くなりました。

特に彩花ちゃんは日本の主治医の先生から余命宣告を受け
「もう治療のしようがないんです」と告げられたくだりは、本当にくららと重なり胸が締め付けられました。

そのように宣告されても、彩花ちゃんのご両親はどうすればよいのか、どうすれば治るのか、何度も先生に繰り返し聞き、自分たちの力で移植の道へとつなげられました。

そしてまた、大橋さんがブログで記されている

「奇跡は「起こる」ものではなく、信じる心が「起こす」もの」

という言葉を目にして、

信じる心が足りなかったんだ、と今、深い後悔で一杯です。



日本にいて、もう治療の術がない、手術をしても術中にかなりの高い確率で旅立つでしょう、と言われ、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンでも同じように術がない、と伺った後、主治医の先生に、
移植はどうでしょうか、と聞きました。

先生は、
「渡航移植は体力も必要だし、募金もしなくちゃいけない。乳児のドナーは大人に比べれば、アメリカとはいえやっぱり少ないから、くららちゃんはちょっと難しいかもしれないな。海外に生まれていれば最初から移植対象なんだけど。」

とおっしゃいました。

アメリカでは外国人の移植枠は前年の移植実績の5%とする「5%ルール」というのがあります。
外国人は日本人だけではないので、その枠に入れるかどうかも難しく、さらに枠に入ってからも
優先順位があります。

それらを考慮しての先生の発言だったのだと思います。



先生は不可能とは言いませんでした。「難しい」と言いました。


日本で移植が出来ていれば、、、ということよりも、
何故あの時難しくても僅かの可能性があればそこに向かって進んでいかなかったのか、
少なくとも1歳ぐらいにならないと(ドナーとのめぐり合いの観点、手術を受ける体力や体重の観点で)移植は難しい、という話を耳にして、勝手に今はまだ無理なんだ、とその時点で思ってしまいました。

もちろん移植をしても拒絶反応や術後の色々な懸念はあります。

でも、挑戦すらしなかったこと、悔やんでも悔やみきれません。


加藤先生の本に
「本当に弱った赤ちゃんは泣かない。ぐったりして泣けないのだ。彩花ちゃんの泣き声は
「生きたい」という魂の叫びのようにも聞こえた」
とありました。

くららは、旅立ったその日までちゃんと泣いていました。泣けていたんです。

前日27日の夜中は本当に良く泣きました。

苦しいのかな、明日受診してみようか、そうパパと話していました。

今思うと、「生きたい!」という、くららの魂の叫びだったのかもしれない。

くらら、本当にごめんね。

2010年2月25日

おひなさま

なみさんから、お雛様だから、とくららにこんな素敵なお花をいただきました。


レースラベンダーです。

そしてお菓子も。有難うございます。



そうちゃん、
こんな可愛いプレゼント、くららにもらって有難う。

くらら良かったね。

お雛様、最初は買う予定はありませんでした。

近所に住む姉宅に実家から持ってきたものがあるので、それをくららも一緒にお祝いさせてもらおうと思っていました。

でも1月22日金曜日に、なぜか急に思い立って、仕事中のパパに
「お雛様買おうと思う。いい?」
とメールをしました。

あまりに突然のことで、且つ大きな買い物ですから、パパから

「ゆっくり週末相談しよう」

との返事がありました。が、なぜかその日のうちにどうしても買いたくて

「いや、何故だかとにかく今日中に注文したいの。駄目でもいい。買うから」

とかなり強引に進めてしまいました。そして、そんな大事な買い物なのですが、外出は出来ないためネットで探し、お雛様とお内裏様だけのシンプルなものですが、「コレ」というものが見つかり、早速注文の電話をしました。

しかし、「納期は2月中旬」との回答が。。。。

それまで知らなかったのですが、お雛様は即納というのはほとんど無くて、納期は早くても1ヶ月前後かかるものなのだそうです。

その日は朝から少しくららのミルクの消化が悪くなってきて、もしかしたら2月に入ったら在宅ケアが継続できずに入院になってしまうかも、という不安が生じていました。

なので、お店の方には
「2月中旬にちょっと入院するかもしれないので、どうしても1月中に欲しいんです」
と強引なお願いをしてしまいました。

対応された方がとても親切な方で在庫をなんとか1つ探し出して確保してくださり、1月27日夜に自宅に届きました。

㋀28日に朝に、
「くらら、おひなさま っていうんだよ」
と話しかけながら飾りました。

夜アトム君が帰ってきたら皆で写真を撮ろうと思っていたのですが、、
その日の15時55分にくららはお空に行ったので撮れませんでした。


今でも本当に不思議です。そんな大きな買い物を一瞬の間に、現物も見ずに購入を決めるなんて後にも先にもあの時だけです。

相談する間もなく買ってしまったわけですが、くららがお雛様見たかったんだね、とパパは言ってくれました。

親らしいことは何一つ出来ずにいましたが、嫁入り道具は一つ揃えてあげることが出来ました。


来年も再来年もその先もずっとお雛様は1月28日に飾ります。

ね、くらら。

2010年2月24日

赤ちゃんを救え!



この赤い小さな恐竜のおもちゃ、アトムがお風呂でいつも遊んでいるものです。

昨日から何故かこの恐竜を「くららちゃん」と呼び始め、「くららちゃん こっちにおいで」といって手のひらに乗せたり、お湯で流してしまって「ママー、くららちゃんがいなくなったよー」と言って焦って探したりしています。

今日もそんな感じでした。くららに似てるのでしょうか、、。

くららは「あたち 恐竜に似てないわよー」と言ってそうです。





今日、心臓病の専門病院からくららが旅立った日の医療費請求書が届きました。

今まで病院からの郵便物はすべてくらら宛だったのですが、今回は主人宛になっていました。

当たり前のことといえば当たり前だし、ただの「宛先」なのですが、一抹の寂しさを感じます。




「赤ちゃんを救え!-移植病棟24時-」という本を読み始めました。
先月 NHKの「プロフェッショナル」で加藤友朗先生が出演されたのをくららと見ていて、アメリカの移植医療について詳しく知りたい、と思い読み始めました。

加藤先生がマイアミの病院で移植(主に小腸・大腸・肝臓など)を手がけていた当時に書かれたもので、
アメリカ国内はもちろん、日本を含む(アメリカから見た)外国の方々への移植への取り組みや
日本とアメリカの保険制度の違いなどが大変わかりやすく書かれています。

(先生は現在美香子ちゃん※1の渡航先であるニューヨークのコロンビア大学に移られています。)


図書館では、一緒に「脳死の人-生命学の視点から」も借りました。
移植医療の現状を知る上で、脳死についての理解は外すことの出来ないものなので。


※1 現在移植のため渡航中の美香子ちゃん http://yaplog.jp/sf97/

2010年2月23日

遺伝カウンセリング 1度目



国立成育医療センターに行ってきました。
パパも半休してくれて一緒に。

以前、2005年にも不育症検査で通ったことがあるのですが、兎に角建物が綺麗で立派です。
マクドナルドハウス(http://www.dmhcj.or.jp/)もあります。さらに今回は保育園と注入室まで出来ていてびっくりしました。

注入室は授乳室と兼用ですが、それなりにスペースもあり、何より「注入にも使える」と明記してあるところが、必要とする親の立場からすると本当にありがたいと思います。

注入のためには、注入筒(イルリガートル http://urandemain.blogspot.com/2009/12/2.html)を引っ掛ける場所(通常は点滴用スタンドを使います)とベッド(乳児の場合)が必要です。くららが通っていた心臓病の専門病院には注入室は無かったので、外来に行った際は診察室を30分ほど一部屋お借りしていました。

ミルクが口から飲めなくなってからは、毎回受付で事情を説明し特別対応という形を取って頂きお部屋を用意頂いていたので、本当に気が引けました。
診察室を診察以外で使わせて頂くための理由・説明を都度しなければならないですし、また、あまり長い時間占有しては他の方の診察にも差し支えてしまいます。
途中からは、くららが自分のペースでゆっくりミルクを飲めるように、病院からの帰りの車で抱っこしながら注入できるよう車の設備を整えたりしたことを思い出しました。

なので、「注入室」の存在、素晴らしいと思いました。


遺伝診療科で1時間ほどのカウンセリングを受けました。

くららの心臓病専門病院での病状説明記録や母子手帳とともに、写真もお持ち下さい、とのことで
写真をお見せしました。

お見せした瞬間、紹介状で見る症状に比べて、顔色などが非常に良くて驚かれていました。

そしてそのあと、なんとも表現し難い、でも、本当に嬉しい、と思える言葉をかけてくださいました。

「くららちゃんって感じがしますね」

くららという感じ、なんか私も主人も、なぜだかわからないけれど、すごく嬉しかったんです。


もちろん病気の根本原因や予防などは未だ解明されていないので、カウンセリングを受けてもはっきりとしたことがわからないことは事前に理解していました。

カウンセリングでは、母体がコントロールできる病気ではない、妊娠期間中、何をどうしても防ぐことは出来なかった、ということだけはわかりました。
原因についてはまだまだ解明は難しいとのことでした。


それでも、カウンセリングを終えても、妊娠中に何か出来ることがあって、それをすれば少なくとも命を失わずに済んだんじゃないだろうか、という思いは変わりませんでした。





くらら、
くららは自分の体を「個性として」選んで生まれてきたの?
くららの持つ個性を通して、パパとママに伝えたいことがあって生まれてきたの?
帰り道くららにそう問いかけました。



喪が明けないうちに色々と動き回るのは不謹慎かもしれないけれど、、、。私なりの思いがあって。


写真に写っているくららのお友達のわんちゃんは「くるる」といいます。
姪っ子ちゃんが、くららのお気に入りだから、、と名前をつけてくれました。

くらら、くるる ママがあずかってるからね。

2010年2月21日

遺伝カウンセリング



22日と3月4日にそれぞれ別の病院で遺伝カウンセリングを受診します。

無脾症候群は遺伝的要素は無く原因も未だ不明、と主治医の先生はおっしゃっていましたが、
それでも、何かくららに関わることで今は時間を費やしていたいと思い立ち、パパも賛成してくれたので予約しました。

以前ブログにも書きましたが、12月上旬に一度子ども医療センタで遺伝外来を予約していました。
ですが、11月末にくららが急遽入院となり大事をとってキャンセルしました。

主治医の先生も看護師さんも
「病院にいる間は人手があるんだから、ママ行って来たら」
と言ってくださいましたが、直感的に止めたほうがいいと感じたので。

そして再度1月28日に予約をしたのですが、、、

あの日のことを振り返るには、色々な自責の念、後悔をもう少し整理する時間が必要ですが、、、

とにかく、くららの旅立ちの日ですからやはり受診はしていません。

そして今、どうしても、あの日のことが思い出され、子ども医療センタに向かう気持ちは持てず、
他の医療機関として、世田谷と新宿の病院で受診することにしました。

受診にあたっては、くららの主治医の先生が診療情報提供書を書いてくださいました。




以前同じ病気でお子さんを亡くされた方が下さったメールに、

「今でも、何をしている時でも「あの時ああしていたら…」という考えが頭をよぎります。
でも、きっとそれは一生続くもので、私が一生背負っていかなくてはならない思いなのだと思っています。」

とありました。

今まさにそう思っています。ふとした時に「あの時どうして私は」と思うと
やりきれなくなります。どの瞬間も、後悔しないように、と思って判断し行動してきたつもりでした。そして、ある時からは、くららとは以心伝心になれている、100%くららの気持ちに寄り添ってる、と思い
こんでいました。

でも、、、それはとんでもない思いあがりでした。


あの日のこと、1月28日に関わりのある事柄があるたびに、私は自分の不甲斐なさを思い出し、
悔やんでも悔やみきれない思いになります。

自分の愚かさに腹が立ち、本当に自分に対して情けなくなります。



ママがいろんなことを後悔しても、くららは喜ばない、悲しむだけ、
ママは精一杯出来ることをしてきたことをくららちゃんはわかってくれているよ、と
パパは言います。
そうかもしれません、でも、私はこうして自分を責める気持ちを持つことで、本当はもっとつらい心の
痛みから逃れているのかもしれません。

人には寿命がある、
長く生きるだけが人生じゃない、
体はなくなっても、心や魂はいき続けてる。

それを理解し受け入れ、気持ちもそういうようにもっていければと毎日思っています。

でもやっぱりリバウンドしてしまうんです。

だからってどうして生まれて5ヶ月でいなくならなくちゃいけなかったのか。
なぜあの日に旅立つことになってしまったのか。

まだまだ時間が必要です。

2010年2月20日

整理・・・



写真は、去年の9月、病棟で酸素用チューブも取れミルク注入用チューブも外れてお口から飲めるようになり、お顔がすっきりしたときのくららです。生後1ヶ月、まだお顔が新生児です。


今日はくららの好きな曲をかけながら、
くららのベッドの周りにあったものを、少し整理してみようと思いました。

飲んでいたお薬や外来受診用のバッグ、洗濯物、くららが関わったものは、あえて、そのままにしてきました。少しでも動かしてくららの気配が薄くなったら嫌だと思っていたので。

でも何故か今日はふと、少し整理してみようかなと思いたって。


未使用の注入セット(イルリガートルやシリンジ、経鼻胃チューブ等)やオムツ、愛用のおもちゃ類。

整理、といっても、結局一つ一つ手にとって抱きしめて、色々思い出し笑いや思い出し泣きをして、
また元の場所においたので、片付けにはなってないのですが。。

くらら愛用の耳付き帽子、内側にはくららのパヤパヤした髪の毛がついています。可愛すぎる。。
大切に保管しなくては、と思い、ジップロック袋に入れました。

幼稚園年長の甥っ子くんが、くららが旅立った日に書いてくれたお手紙もありました。

「くららちゃんがてんごくにいってかなしくてさびしくてかわいそうで
なきそうでかなしいよ」

甥っ子くんは本当にくららを可愛がってくれて、くららのことが大好きでした。

こんなに想ってくれて、ありがとう。




くららの好きな曲、

1曲目は「おやすみ」という子守唄。

これは、以前ピジョンが無料で提供していたCD(http://www.pigeon.co.jp/release/book07_02_05.htm)に入っている歌で、アトム君が生まれたときに入手したものです。

くららの人生を通して、ICUにいた期間を除いて、毎日必ず1回は歌った曲なので
たくさんの思い出があります。

入院中、なかなか寝付けないくららを連れて、真っ暗な病棟内をお散歩しながら
歌ったこと、
毎晩添い寝しながら、私の人差し指をくららの左手でにぎにぎしてもらってたこと。

「おめめをつむって暗くなっても、ママがその手を離さないよ♪」

大好きだったはずのこのフレーズは、今はまだ胸に重く響きます。


2曲目は「明日に架ける橋」(原題:Bridge over Troubled Water)

これは色々な方が歌っていますが、くららのお気に入りのベッドメリーに入っていたもので
妹がCDを探してきてくれました。

とにかくこのベッドメリーが大好きで、手巻きネジ式なのですが、5分程度で止まります。

一旦止まると、目と「あぁー、うぁ~」という可愛い声で催促され、
夜中は眠い・・と思いながらも何度もネジを巻いたのが昨日のことのようです。

このメリー、くららの見送りの際、一緒にもって行かせました。




3曲目はスガシカオの「Progress」

NHKの「仕事の流儀 プロフェッショナル」の主題歌です。

くららが好きだった、というよりは、くららとの思い出の曲です。

1月19日に放送された移植外科医加藤友朗先生の回を、1月25日にくららと一緒に見ました。
丁度美香子ちゃん(現在移植で渡米中 http://mikako-bokin.com/)が出演していて、
生まれて半年しか生きられないと言われていたのに今1歳2ヶ月で頑張っている美香子ちゃんを見て

「くららも大丈夫だよ。1歳まで頑張って、体力付いたら、そしたら渡米移植できるよ」

と話しかけていました。何度聴いても、その二人で観ていた時間を思い出して、抱っこしていた
感触を思い出せて幸せな気持ちになります。


そして最後はHayley Westenraの「The Best of Pure Voice」というCDです。

これは以前妹がくららにプレゼントしてくれたCDで、毎日このCDを聞いてくららは午前睡をしていました。

アメイジング・グレイスやアヴェ・マリア、タイム・トゥ・セイ・グッバイといった親しみやすい
曲が多くて、またその声が本当に心地よくて、私もくららと一緒に眠ってしまうことが度々でした。

音楽のおかげか、いつも以上に、家の中にくららが溢れています。

涙もつらい涙だけじゃなくて、懐かしい気持ちと温かい気持ちの涙も。くららの感触も。


これが冒頭で書いた耳付き帽子です。
くらら、すごい寝相!

2010年2月19日


昨日また雪が降りました。

あの日1月28日、くららが旅立った日も、夜から初雪が降り、日付が変わるころには積もっていました。
ベランダに出ると、真っ暗で冷え切った外の空気はとても澄んでいて、くららが

「あたち、無事に着いたわよ」

と教えてくれているような気がしました。

そしてまた、何の計算もなく、いろんなことを真っ直ぐに信じていた10代の頃、暮らしていた東北の町を思い出しました。

2月8日にも雪が降り、そして昨日18日にも。

くららは8月生まれ、何か「8」という数字に縁があるのかな。



アトム君のお迎えはパパが行ってくれる、と言っていたのですが、ふと思い立って
身支度をし、いつもの帰り道のルートの途中で隠れて待ち伏せしてみました。

私の姿を見つけてアトムは大興奮、妙にリズミカルな歩き方になり、家に着くまでの約30分間、
ずーっとご機嫌でお話し続けていました。

夜お風呂に入りながら
「アトム君、生まれてきてくれてありがとうね」
と言ったところ

数秒置いた後に
「どういたまして(どういたしまいて)」
と笑顔で返してくれたあと、

「ママ、生まれてきてくれてありがと。」
と言ってくれました。涙がでました。

そしてくららにも、「くらら生まれてきてくれて有難う」を伝えました。

今目の前にある大切なことにもしっかりと目を向けていくこと、くららもそれを望んでいるはず。

そう思える瞬間とまだまだ悲しみが溢れてくる瞬間は入れ替わりにやってきますが
この不安定さを今は自然のものとして受け入れています。

くらら、いろんなことに気がつかせてくれて有難う。
命をかけて、いろんなことをママに教えてくれて有難う。

2010年2月16日

思うままにただ・・・


1回目の救急車の時だったでしょうか、主治医の先生に

「お母さん もしものとき、壊れないか心配。アトム君のママでもあるんだからね。」

と言われました。

「壊れる」・・・・・その意味の捉え方は人それぞれですが、その時私は

「大丈夫です。二人とも同じぐらい大切だし、万が一の事があっても、私は娘を弔っていく責任がありますから壊れません」
と答えました。

でも実際に今になってみて、少し壊れかけてるような自分を感じる時があります。

凄く元気で、泣いたっていい、もう大丈夫、と元気に思える瞬間もたまにありますが、
ほとんどの時間は、自分が思っていたよりも全然大丈夫ではありませんでした。

毎朝、ミルクを作ってくららにあげた後は、
何もする気も起きずにボーっとしているうちに1日が終わることが多くて。

お風呂やお手洗いから慌しく出なくて済むこと、ただそれだけのことが悲しくて涙したり。


アトム君のお迎えに行く道すがら、一人で歩きながら、梅を見つけて、
「春までもう少しだったのに。」と思ったり。

お迎えで保育園に着き、乳児クラスの赤ちゃんたちを見て、
「元気になってたら、くららもこの4月に保育園だったんだなぁ」と。

デパートで見かける可愛い子供服を見かけて、
「元気になってたら、くららにも温かいモコモコのベビー服似合っただろうな」
と、つい何でも関連付けてしまったりして。

人目もはばからずに、予測出来ないタイミングで、涙が出ます。

アトム君は、そんな私を気遣ってくれてか
「ママ、アトム君はくららちゃんが大好きだから、おもちゃ貸してあげるね」
「ママ、クッキー美味しいからくららちゃんにもあげようね」
としきりにくららのことを気にかけてくれます。

頼りないママでごめんね、と、アトムやくららに思いながらも、
でも、こういう状態も時にはアリなんじゃないか、とも思い始めています。

こういう状態を経て、いくつか存分に悲しみや苦しみの次のステップがあって、
色々な思いを感じて、最終的に一皮向けた母親になれたらいいんじゃないかって。



私の弟がメッセージをくれました。

「誰よりも頑張ったくらら。
太く短い人生だったけれど、でも、これほどまでに両親に愛されて幸せな人生だったように思います。
いつか くららに追いついたときに、くららに笑われない人生を僕も送れたら、と思います。」

いつか、ママ、がんばったじゃない、あたち ずっと見てたわよ、ってくららに言って貰えるママに
なれますように。

2010年2月15日

くららちゃん 帰ってこないね

奇跡を最期まで信じていました。少し体重が増えて移植に挑戦できるようになる、医学が進歩して日本にいても何か治療がみつかる、毎日、最期まで本当に信じていました。

自分の命に代えられるなら、是非ともそうしてほしいとも思っていました。

会いたくて会いたくて、何度泣いたら私は現実を受け入れることが出来るようになるんだろうか。
前に進める日って来るんだろうか。


日に何度か、アトム君が

「ママ くららちゃん 帰ってこないね」

と言います。

いつもは、くららはお空に行って、アトムからは見えないけど、くららはいつも見て守ってくれてるよ
と伝えています。

が、今朝は私も

「ほんとだね、いつ帰ってくるんだろうね」

と思わず口から出てしまいました。

帰ってきてほしいです。くらら。

2010年2月12日

仕事

写真は12月中旬のくららです。私をじっと見つめてるくららを姉が撮影してくれました。
私の一番お気に入りの写真です。





上司から連絡があり、3月1日に復職前の面談、3月8日から正式に職場復帰では大丈夫ですか?とのことでした。

大丈夫、、大丈夫と言われれば大丈夫ですし、一方で、
上司と電話で話している間にも、予測しないタイミングで涙が出てしまい、これから先職場で同様のことが
起きたら、と思うと不安もあります。

でも、こうして、パパもアトム君も、そしてくららの姿も見えない家に閉じこもり、現実が覆るんじゃないかと妄想してみたり、あの時もっとこうしていれば、と自分を責めたり、何もせずにボーっとしているよりも、「仕事」で強制的に頭と体を動かすことで時間を流していくのも、ひとつの手段かなと思い、復帰することにしました。

「社会の中での自身の持つ悲しみとの付き合い方は、時間と共に形成されてくるように思います。」

先日なみさんがコメントしてくださったメッセージです。

生涯忘れることも変わることもない今の悲しみと付き合いながらどうやって生きていくのか、時間の流れに身を任せていく中で感じていこうと思います。


復帰してみて、どうしても駄目だったら、仕事どころじゃなかったら、、それはそのときに考えようと思います。

くららの納骨はまだしていません。お墓にくらら一人だったら寂しいんじゃないかという事もありますが、何より私が離れられないからです。

職場に骨壷を持っていくわけにはいかないので、アッシュペンダントを買いました。

いつもどんなときも一緒に。

2010年2月9日

ブログについて・・改めて

病院と自宅が、99%くららの人生での空間でした。

一度くらい連れて行きたかったアトム君の保育園の送り迎えすら、一度も叶いませんでした。

病院の先生と看護師さん、家族以外にはあまりくららを知ってもらう機会がありませんでした。


本当に短い人生でしたけど、くららが生きたその事実を家族以外の人が覚えてくれている、
そのことが、くららを一人の人間として、その存在を認めていただいているようで
ただただ嬉しかったです。
なので、「くららのこと忘れません」というコメントを頂いて、号泣しました。


ブログは、くららの生きた軌跡でもあります。

ブログを開くと、そこにくららの存在を感じることが出来て、今の私には大きな心の支えになっています。
つらい思い出でも、懐かしい良い思いででも、兎に角くららで溢れています。

毎晩夜中のミルク注入の際の時間記録をつけていて、そのついでに、ブログを開いてくららの様子を綴っていたその日々を思い出し、くららがまだいるような錯覚に陥ります。


少しずつ、周りの生活が日常に戻りつつあります。

アトム君は今日から保育園再開です。

パパも忌引きが終わります。

パパもアトム君もいない日中、私はどう過ごすんだろうか。

アトム君の送り迎えにも復活しなくては。

でも、保育園で0歳児クラスの赤ちゃんたちに会う、それだけで、何故だかわからないけど、今は涙が出てしまいます。

そういったことを一つ一つ積み重ねてクリアしていけたら、と思います。


写真は、お正月、私を見上げて手をにぎるくららです。
ちょっとおしゃれをしてヘアバンドをしています。

2010年2月6日

文字にすることの意味




今日は横浜の海辺に行ってきました。

家の中にいても、くららのビデオや写真を見続けて苦しくなってしまい、会いたくて抱っこしたくて、気がおかしくなりそうで。
かといって雑踏の中は、何ヶ月も引きこもって暮らしていた身にとっては、ただただ疲れるばかりで、とにかく自然に触れたかったので。

寒気の澄んだ空気とカモメの鳴き声の中で、海に向かって、パパとアトム君と一緒に
「くらら、会いたいよー。

くらら、どうしてるー。元気なのー。」

と何度も大声で叫びました。

船の汽笛等もあって、大声でくららを呼んでも不審に思われないようで、とにかく気が済むまでくららに話しかけました。

くららが旅立って日も浅いのに、PCに向かってブログを再開したことについて、
「回復が早いね」
と知人からメッセージがありました。


心で想うことに加えて、言葉にしたり、文字にすることで、
くららが旅立ったことが、「現実なんだよ」
と自分に言い聞かせようとしています。

ただ、意味も無く、脈絡も無く、話したり、文字にしている時間を重ねていくうちに、
気づいたらたくさんの時間が流れていて、現実を受け入れることが出来るようになれば、と。

それが「回復」だとすれば、そうなのかも。


眠って起きるたび、「あれっ、くららは?」と
思い、次の瞬間に、鼻の奥のほうがツーンっ痛くなって、
言葉に出来ない悲しみがやってきます。

職業柄、眠っている時間以外、常にPCが立ち上がっているという生活パターンもあり、
PC漬けです。
これまで綴ってきたくらら(ウラン)の生きた証を読み返したり、
改めてくららの病気について詳しく調べたり、
同じ病状の赤ちゃんの海外での心肺移植例を読み漁ったりもしています。
(難しすぎて辞書を引きながら、流し読みですが)

アメリカで生まれていたら、移植という選択肢があったこと。
選択したかどうか、ということよりも、選択肢のある環境に産んであげたかった。

それでまたやりきれなくなってブログを書いたり。


写真は1月15日のくららです。
大好き、くらら。

2010年2月5日

会いたくてたまりません

1週間が経ちました。

何をしていても、これは現実じゃないんじゃないか、と思ってしまいます。

カレンダーには、今日の日付に「11時くらら 外来受診」のメモが。

でも、
今日レンタルしていた介護用ベッド、業者さんが引き取りに来ました。

会社の人事の方からは「1月28日付けで育児休職終わりましたから、復職願い出してください」と電話がありました。

復職できるかどうかも、考えることすら今はまだ出来ません。

急に時間に余裕が出来てしまって、でも気持ちには全然余裕が無くて。

夜、あれだけ忙しくて寝不足がつらかったのに、今は夜が眠れません。

2月1日にくららを見送って、

2月2日の夜から、5ヶ月ぶりにくららのいない夜が訪れました。

どうしよう、全然覚悟が出来ていませんでした。

ずっと、そばにいてくれるものと、希望を持ち続けていました。

この気持ち、どうしたらいいんだろう。