今日8月31日でくららは1歳になりました。
皆様、お祝いのメッセージやお花、素敵なプレゼント、ほんとうにありがとうございます。
4カ月と28日という短い人生のくららを、こうして思って下さって、覚えていて下さることが親として本当に有り難く、感謝の気持ちでいっぱいです。
今日は朝から1年前のことを思い出してばかりで、仕事が全く手に着かず、早めに切り上げて誕生日のお祝いの準備をしました。
1年前、政権交代の選挙当日、8月30日の23時頃に陣痛が10分間隔になり、主人と病院に向かいました。
1時ごろ、まだ生まれなそうだから御主人いったん帰ったら?と助産師さんに言われ、主人が帰宅してほどなく陣痛の間隔がドンドン短くなり、パパに病院に戻るよう連絡した直後、午前3時22分、くららは元気に産声を上げました。
その瞬間、そして、4時間後突然の救急搬送までの束の間の時間、とてもとても幸せな時間でした。
明け方、心配ないとは思うけれどチアノーゼが引かないので念のため、、院長先生がそういってNICUのある病院にくららだけを搬送すること、私は分娩直後だから病院に残り一緒には行けないこと、院長先生が救急車に同乗することを告げられました。
お腹から出て間もないのに、両親と離れてたった一人で救急車に乗せたこと、二度も寝床(病院)を変わらなければならなかったこと、どれだけ不安だったか、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。
転送先のNICUで検査後すぐに来るよう連絡を受けて、到着するや否や病名を告げられ、その内容の難しさに頭が付いていけず混乱する中で、近々に手術をしなければ命が危険だがここでは出来ない、対応可能で且つベッドが空いている病院を探しています、と言われこれまで味わったことのないショックを受けました。
一方で、パパは至急くららの保険証を用意すること、小児慢性特定疾患や育成医療といった、初めて耳にする医療申請の手続きを急ぐよう病院から指示を受け、走り回ってくれていました。
初めて足を踏み入れたNICUで、わずか30分だけの面会時間、インキュベータの中の小さな手を握り締め、
「ごめんね」を何十回も繰り返し伝えました。
出産した病院に戻った夜、母子同室の各部屋からは、新生児の泣き声とそれをあやすお母さんの声が聞こえて、どうしてくららはここにいないのだろう、やっと会えたと思ったのに、どうして今私は一人なんだろう、こんなことになってしまってごめんなさい、と誰にともなく謝り、自分をひどく責めたことを鮮明に覚えています。
生まれて2日目、更に転院した心臓の専門病院で、翌日にすぐ手術をすること、人工心肺を使う上でのリスクとして術中死のリスク、術後のPHクライシスや腎不全、MRSA感染等のリスクによる命の危険性の説明を受けた上で、手術と全身麻酔・輸血の同意書へのサインを求められました。
疑問や確認等物事を理解したうえでの行動を取ることが出来ず、ただただそれぞれの同意書にサインしました。
ICUを出るまでの間、くららに会えたのは毎日9時から9時10分の間面会時間だけでした。
成人用ベッドの真ん中に、呼吸器やたくさんのチューブや器具をつけた小さな小さな私の娘が眠っていました。
母親の心音を真似た音の出る機械を枕元に置いて裸でオムツだけをつけたくらら。
抱っこすることもできず、無力なパパと私は、生まれる前の、お腹の中の居心地を思い出してもらえるよう、たくさん話しかけること、唯一触ることのできるおでこやほっぺに手を触れ、キスをして、パパとママがついてるから、明日も来るから、眠っている間にすぐ明日になるからね、と伝えることしか出来ませんでした。
くらら、うちの子に生まれてきてくれて本当にありがとう。
今はもう姿は見えないけれど、でも、いつもくららがそばにいてくれるように感じます。
くららの病気とその深刻度を知った時、鮫島 浩二先生の「私があなたを選びました」を読んで、うちじゃなければ、くららは健康に生まれていたのでは、私の娘でごめんね、という思いを持ちました。
でも今は、素直にくららが我が家を選んできてくれたんだと心から思います。
もうくららのいない人生は考えられないですから。
くららが大好きでたまらないパパは、「1歳」という日は特別だから、と、こっそりプレゼントを用意していました。
ピンクの帽子つきのウサギちゃんです。
ふわふわして柔らかくて、なんだかくららそっくりです。パパにしてはとても良いセンスです!
アトム君がくららの代わりにろうそくの火を吹き消し、保育園で習ってきた歌を歌ってくれました。
「誕生日、おめでとう♪、ぐんぐんのびて、天までとどけ、
ほんとにほんとにおめでとう♫」
★今さら気付いたズボラ母★
3 週間前